LT22-1-1あなたの新しい隣人
- 耕司 大平
- 2021年12月31日
- 読了時間: 6分
2022年1月1日(土) 「あなたの新しい隣人!」 LT(Loving Time)大平耕司
前長野教会牧師、森博光先生の証
2000年5月29日(月)、私は余命いくばくもないある医師の信仰告白式のため盛岡に向かっていました。肝臓ガンで末期状態の中、クリスチャンとなって人生を終えたいというその一念を察したご家族が動いたことによる行動でした。こんな経緯で、ご家族は、SDA盛岡教会を訪れたのです。しかし、その時の牧師は神学校を出たてで、対応に不安を感じ、仙台にいる私に助けを求めてきました。そして当日、その牧師と信徒三名と共に私は病室に入りました。その時、私の目に映ったのは、ガンとの戦いにやつれながらも、しかし、いまだ自分の人生に何か決着がつけられずに呻いている一人の人の姿でした。私たちは短い挨拶を交わしたのち式に入りました。私は三つの質問をする旨を伝え、それに信仰の表明のしるしとして、「はい」と返事をしてくださることを求めました。
一番目、聖書が神の御言葉であること。二番目、イエス・キリストが罪のために死なれたこと、そしてこのイエス・キリストを信じるとき罪が赦され救われるという約束。三番目、再臨への希望、でした。一番目はすんなりクリア。しかし二番目に質問が及んだ時、その流れが止まりました。「どういことかわからない」と言われたからです。実は、こんな信仰告白式は初めてでした。全く信仰のわからない人になんと無謀な質問でしょう。ところが私は聖霊に引き出されて聖書が語る確信を宣べることになってしまったのです。私は語り始めました。
「先生は、これまでご自分の計画どおりを歩んで来られた方だと思います。しかし、人生には計算外のことが起こるものです。たとえば人生半ばで断念せざるを得ない状態に立ち至るということが・・。まさに先生はいまそこに至られた。死は容赦なく私たちに“ここまで!”と幕引きをするのです。まだ、なすべきことが多くあるというのに・・。さらに自分の人生の決算をさせられる時、そこには人間として真になすべきことが出来なかった取り返しのできない汚点も見るでしょう。聖書はこれを罪と言っています。しかし、このときにこそ人には不可能な解決が用意されています。それがイエス・キリストの十字架です。イエス・キリストはまさにその解決のために私たちの所に来て下さいました。」
そして私はもう一度、同じ二番目の質問を繰り返しました。すると彼の方から「はい、信じます」と確かな信仰告白が返ってきたのです。そしてそのあと思わず「ああ良かった!」と安堵の声が彼の口からこぼれたのです。それがキリストのみが与え得る平安のため息であり、まさに彼の生まれ変わる瞬間でした。三番目のキリストの再臨もスポンジが水を吸うごとく理解なさり、希望の核心として彼の心に流れ込んでいきました。そして、この信仰告白式が終わったときには、病室の空気は一変していました。
私たちは初めてお会いした日であるにもかかわらず、共に抱き合って喜び、そのままベッドから起き上がった彼はその喜びを隠しきれない様子で奥さんと娘のところに駆け寄り、抱き合ったまま泣き崩れていました。その一週間後、この医師は病院で52歳の人生を閉じていかれました。
私はその時この御言葉を噛みしめていました。
「この人による以外に救はない。私たちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒行伝4章12節)
あれから一年が過ぎ、私はまた6月に盛岡に向かうことになります。あの親子の洗礼式のために。主がなされる御業にハレルヤと讃美しながら。 さて、今日私に与えられた聖書のメッセージです。
Ⅱコリント5章17節『誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』・・・明けましておめでとうございます。今日は、2022年度の最初の日です。始まりです。私たちの人生にも始まりがあったように、この地上もそして宇宙も始まりがありました。聖書は、このように始まります。「始めに、神は天地を創造された」(創世記1:1)。そして、最後の六日目には人間を創造されて、「神はお創りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(同1:31)とあります。エレン・ホワイトの言葉です。
『地球が創造主のみ手によって造られたとき、それは非常に美しかった。その表面には、山や丘や野原があって変化に富み、きれいな川や美しい湖水が、ここかしこにあった。しかし、山や丘は、現在のように、けわしく、あら削りではなく、恐ろしい絶壁や裂け目などはなかった。地球の骨組みをなす岩かどは、肥沃な土地に覆われて、いたるところで、緑の草木が繁茂していた。気味の悪い沼や不毛のさばくはどこにもなかった。どちらを向いても、優雅な灌木や優美な花が視線をとらえた。丘は、今はえているどんな木よりも堂々とした樹木で飾られていた。空気は、臭気で汚染されておらず、清らかで健康的であった。周りのけしきは、どんなりっぱな宮殿の飾り立てられた庭園よりも、はるかに美しかった。天使の群れは、その光景をながめて感激し、神のすばらしいいみわざに歓喜の声をあげた。』(人類のあけぼの上16頁)。
これは、まさしく天国の情景です。地球の始まりはとても良かったんですね。そして、私たち人間は、この素晴らしい地球にふさわしい者として造られました。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。・・すべてを支配させよう。』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1:26,27)。聖書は、私たち人間が糸の切れた凧のように、気まぐれの風にただよう存在ではないときっぱり言います。つまり、たまたまサルから人間に進化した生き物ではないと言うのです。神に似せて、神とつながりを持ち、愛する存在として、それも永遠に生きる者として造られたと語ります。神の意志を担う存在として宇宙に置かれました。
とは言っても、現在の状況は、最初の麗しい状態に比べると正反対です。神様は、私たちを心から愛し尊重されたゆえに、選択の自由を特権として与えられました。最初の人であるアダムとエバ以来、堕落した天使ルシファー(悪魔)の誘惑もあり、神様とのつながりを捨て、己の意志や欲望を優先させる生き方を選んだ結果、永遠の命から滅びへと転落してしまった人類だと聖書は語ります。
イエス・キリストは、そんな人類の歴史に介入して下さいました。神様が人間の姿をとられ、もう一度本来の神の栄光の姿を人間と自然が取り戻すために、地上に来て下さったのです。まさしくすべてを新しくされるのです。人間の力ではどうしようもなくなった罪の身代わりとなられ、自ら十字架に架かられ、すべて人間の恥ずべき言動を無効にして下さいました。聖書には繰り返し、神様の愛の介入を記しています。
私たちには人生の節目が与えられています。それは、新しく生まれ変われる希望を与えてくれます。ついこの前のクリスマス、救い主イエス・キリストの誕生を祝うときに、お二人の方がバプテスマを受けられました。新しく生まれ変わった記念日となったのです。
そして、この2022年度元旦、安息日でもある今日は、とても大切な節目です。なんと今年は、12月31日の大みそかも安息日で終わることになります。その日にも、きっと「見よ、すべてが新しくなりました」と叫ぶ隣人が与えられていることでしょうね。
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