人生の目的とは?
- 耕司 大平
- 2024年4月27日
- 読了時間: 7分
2024年4月13日(土) 「人生の目的とは?」 LT(Loving Time)大平耕司
先日、妻と二人で近くの銭湯に行きました。470円という安い昔ながらの銭湯です。しかし、泉質は温泉なのです。とても温まります。さて、その晩銭湯から帰り食事をしたあとに、ふと石鹸箱を忘れたことを妻が思い出しました。銭湯が閉まる21時ちょっと前だったので、急いで銭湯に行きました。しかし、時遅くしっかりと銭湯の扉は閉ざされ、明かりも消されていました。また、出直すことにしました。そして、翌日行ってみると、石鹸箱はありませんでした。誰かが持って帰ったか、忘れ物にも届いてないとのことです。それで、妻はプンプンです。「人の石鹸箱を取るなんて、許せない!」というわけです。そこで私が、「石鹸箱を忘れたあなたが悪い。なぜならば、あなたが忘れなかったら、相手に罪を犯させなかったからだ!」と言うと、「どうして私が悪いの?盗んだ相手が悪いでしょ?」とカンカンになって怒っています。「気分が悪い!」といつまでも言うので、私はこのように言いました。「ま~たいした損害でもないのでそんなに怒るな。それよりも、その石鹸箱を持って帰った人がそれで助かったんなら、それはそれで良いことをしたんじゃないか!」と。それからちょっとしたら、妻の機嫌は良くなりました。(*^-^*)
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今日私に与えられた聖書のメッセージです。
コロサイ1章16節『天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。』・・・パウロが命をかけて、私たちに訴えています。それは、私たちの人生とは、私たちが中心ではないということです。私たちの人生の目的とは、素晴らしい職業や夢の実現、心の安らぎや幸福感などといったものよりもはるかに優ったものです。自分がどこから生まれたか分からず、気づいた時には、この世に存在していた私たちですから、自分の人生の目的は、まず神から始めなければなりません。つまり、私たちは神の目的に従って、しかもその目的のために生まれたのです。
『人生の目的』というテーマは、この歴史の中で多くの人々の悩みの種となってきました。なぜならば、その出発点が『自分』から出発しているからです。私は何になりたいのか?私は何を為すべきなのか?私の目標は?私の将来の夢は?等々、その質問の中心には、いつも『自分』が居座っているのです。
私も含めて多くの人々が自己実現のために神を利用しようとします。しかし、それは、自然の摂理に反することであり、失敗に終わります。なぜならば、自然の中の草花は、相手を喜ばすために存在するからです。今現在も、桜の開花が日本中を喜ばしています。ほのかな桃色が世の中を明るく、そして喜ばしくしています。また、色とりどりのチューリップも私たちの心を和やかにしてくれています。或いは、植物は、日々二酸化炭素を吸収して、酸素を私たちに供給してくれています。これは、神を知る方法の一つです。つまり、自然を通して神が啓示されているからです。神が私たちを祝福しておられることがよく分かります。聖書はこう語ります。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です」(ローマ8:1)。つまり、「自分に固執していると、やがて行き詰まることになる。しかし神を仰ぎ見ていれば、開放的で、広々とした、自由な人生が目の前に開けてくるのである」。
私たちの関心ごとは、常に自分をどのように喜ばせるかです。しかし、自然の摂理は、常に相手の必要にどう応えられるか?を考えています。聖書は語ります。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のために命を失う者は、それを得る」(マタイ16:25)つまり、「自己啓発は、実際のところ助けにはならない。自己犠牲こそが、自分を(本当の自分を)発見する道であり、それが私の方法である」ということです。
今、世界中の注目の的の一人に大谷翔平選手がいます。彼は誰もが認めるプロ野球選手の頂点に立っています。また、皆がうらやむほどの容姿を持ち、人間性も素晴らしいものがあります。彼の野球人生の偉業は、若い頃からの目標であり、そのための日夜の努力が功を奏した立派な結果です。しかし、成功を収めることと、人生の目的を達成することは決して同じではありません。大谷選手の信仰は分かりませんが、誰でも、神が私たちを造られた目的を無視した人生は、何にも意味がないのです。ある日、弟子の一人がイエス・キリストに「私の父が亡くなりました。葬りに行ってからあなたに従います」と言ったら、「私に従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(マタイ822)とイエス様は答えられました。つまり、神を見いだせないで、従わない人の人生は、死者のように何にも意味を持たないということを語られたのです。
ある哲学博士が、世界中の著名な哲学者、作家、知識人など250名に手紙を書きました。そして、次のような質問をしました。「人生の意味とはなんでしょうか?」と。ある人は、自分のそれなりの見解を示し、ある人は、正直に全く見当もつかないと答えたそうです。しかし、多くの知識人たちが、この手紙を出した博士に対して、「もし人生の目的が分かったら教えてほしい」という返事を書いてきたそうです。このように、人間が自分の内から考えだす哲学という方法では、人間の推測の域を出ることはないのです。
さて、『人生の目的』を知る、もっと良い方法があるのでしょうか?・・・あります。それは、神の啓示という方法です。神は聖書を通して、ご自分をはっきりとお示しになりました。そして、その中で、人生の目的を私たちに教えておられます。聖書は、私たちの人生の取扱説明書であり、そこに私たちの生きる理由、人生の意味、避けるべきこと、将来に何を期待すべきかなどが説明されています。自己啓発や哲学などでは知ることのできないことが教えられているのです。聖書は語ります。「私たちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神が私たちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです」(Ⅰコリント2:7)。つまり、「神の知恵は、神の目的の深淵にまで及んでいます。それは新しいというよりも、最も古くからある教えであって、神が、私たちのうちから最高のものを引き出す方法とみなしておられるもの」なのです。
私たちが、『人生の目的』を見い出すためには、この世の知恵に頼るのではなく、神の御言葉に耳を傾ける必要があります。人生は流行りの心理学や成功哲学や思想の上にではなく、永遠の真理という土台の上に築き上げていかなければならないものです。聖書は語ります。「天地創造の前に、神は私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。・・キリストにおいて私たちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました」(エフェソ1:4,11)。つまり、「キリストにあってのみ、私たちは自分が何者であり、何のために生きているのかを知ることができるのです。私たちが最初にキリストについて聞き、希望を持つようになる遥か昔から、主は私たちに目を留め、私たちに輝かしい生き方を用意しておられました。すなわち、あらゆる事柄の中に、またすべての人の中に働いておられる主の大いなる目的の一部を私たちが担うようにと計画しておられた」ということなのです。
従いまして、私たちの存在理由と人生の目的は、イエス・キリストとの個人的な関係を通して見出されます。そして、神は私たちが生まれる遥かずっと前から、私たちのことを計画され、それぞれを創造されたのです。私たちは、自分の趣味や仕事、結婚、その他様々な事柄を選択できますが、人生の目的は神によってあらかじめ与えられているのです。また、私たちの人生は、計り知れないほど遠大な、宇宙規模の目的と合致するものです。神によってデザインされたこの目的は、永遠に及ぶものです。
つまり、すべてのもの、ありとあらゆるもの、天にあるものも地にあるものも、目に見えるものも見えないものもすべて、いっさいのものがキリストのうちに始まり、キリストの中にその目的が見いだされるのです。このことを、これから少しずつ瞑想しましょう!
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