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あなたは見えてますか?

  • 執筆者の写真: 耕司 大平
    耕司 大平
  • 2022年4月9日
  • 読了時間: 10分

2022年4月9日(土) 「あなたは見えてますか?」  LT(Loving Time)大平耕司

 (前書き)・・「考えない大人」・・弱冠15歳の僕が大人のことを書くと生意気かも知れません。この本を書いている僕はまだ中学生です。不登校にはなっていますが、学校が嫌いな訳ではないですし、勉強が嫌いな訳ではありません。だけど、まだ世の中の事をよく知りませんし、自分で全ての責任を負って生きている訳ではありませんから、大人の皆さんからは生意気だと思われても仕方がありません。批判されることを覚悟した上で、考えない大人の特徴について書きますね。・・・●テレビで放映されたことを鵜呑みにする。●中途半端に新聞を読む。●政府が正しいと思っている。●指示待ち。●目先の損得で選択する。●自ら行動しない。●周りの顔色を窺(うかが)っている。・・・

コロナ騒動が2020年の初頭から始まりました。休校措置を挟んで進級し、学校が再開されたのは6月でした。休校措置解除と共に学校の先生達と衝突。マスクの強要に対して反論のレポートを上げたことがきっかけです。「こんなところにいるとバカになる」そう感じて不登校宣言。自宅での学習を選択しました。そしてまるで忘れ去られたかのような無視状態が続いたのです。コロナ騒動には感謝していますが、学校の先生方には失望しました。もっと言うと今の世の中の大人達に失望しました。「何故みんな自分で考えないのだろうか」「何故疑問に対して習った学問を活かさないのだろうか」未だに思っています。僕がコロナ騒動に感謝することが出来るのも「自分の意見を持つ」「自分で調べる」「自分で考える」を行ったからです。そして素晴らしい出会いが沢山有ったからです。

 僕がコロナ騒動で学べた事はコロナに関することだけではありません。マスコミに煽られた大衆がどのように動くのかを生で見て肌で感じて経験しました。世間が洗脳されていくところをしっかりと観察できた質感を伴って感じ取られたことはラッキーだと思っています。何も考えず上の言いなりの先生に従っていたなら、僕も“言われるがまま言いなり”に育ってしまったかも知れません。何も解らない未知なことにも必ず何かの緒があるはずです。大騒ぎになった2020年3月は学校も休校措置になってしまいましたが、毎年のインフルエンザの学級閉鎖とは違い、誰も症状など有りません。学校の先生達もその辺りは実感が有ってもおかしくないと思うのですが。正直に書きますが、学校へ行かなくなってから知り合いも増えましたし、何よりも「考えて行動」「責任を持って行動」など素晴らしい体験が増えました。不登校を選んだことに後悔はなく、きっかけとなったコロナ騒動には感謝ですし、離れて見て学校の異質さにも気づけて感謝です。

 2020年7月2日、僕は5時間目の授業が終わった後「帰る」と言って席を蹴りました。社会科の授業の最中でした(翌年この社会科の先生が担任となりました)。先生は何事が起きたのか理解できずに慌てたと後日話しておりましたが、何事が起きたのか解らないというのは単なる詭弁でしょう。それとも全く観察眼がないかどちらかです。学校にレポートを出した時から何となく不登校になる気はしていましたが、先生達もそうなる想像はできたのではないでしょうか。少し遡(さかのぼ)って2020年6月。僕がレポートを出した後、当時の担任の先生が会議にかけてくれました。そして学校の先生達が僕にマスクを強制することは無くなりました。ただし僕だけの特例で。しかしながら、他の生徒には僕のノーマスクの理由を説明しなかったので、僕は同級生に揶揄(からか)われることになりました。そこから一部の同級生に無視されたり陰口を言われたりするようになりました。     ✓この環境で何も学べない ✓バカに教わるとバカになる 

 そう思って不登校を決意しました。今になって振り返っても、あの時に不登校になって良かったと思っています。僕が我慢して学校に生き続けたとしても学校に意味を感じていなかったと思います。考え方が違う人を差別し、その考えに至った経緯を全く説明しない学校。みんながマスクを着けて顔を隠して、先生もマスクをして顔を隠している、こんな状況で授業を受けたくないと思いました。不登校ですが、中間・期末のテストは学校に行って受けています。学ぶことが嫌なのではないですし、僕だって人並みの学問は習得したいのです。・・・・・僕が出したレポートは基本的にはマスクの事を書きましたが、その時海外で起こっている事も書きました。マスクの事は難しくは書いていません。マスクの網目ではウイルスを防ぐのは不可能という事を書き、口でも説明しました。マスクのレポートの一部を載せます。・・・『実際、厚生労働省の「インフルエンザ総合対策」には、「咳・くしゃみが出る時は、他の人にうつさない為にマスクを着用しましょう」と書かれ、他人からうつるのを防ぐ意義については触れられていません。一方、テレビや新聞では、冬になると「人混みに出る時にはマスクを」と決まり文句のように繰り返し、実際に多くの人々が日本ではウイルスをもらうのを防ぐためにマスクを着用していますが、私から見ると、その意義はかなり疑問です。』このようなことを書いて学校に提出しました。

 レポートを担任の先生に提出しました。その後担任の先生から「今会議にかけているところです」と言われました。後日、朝学活で「丸本くんはマスクを着けなくてもいいです」となりましたが、同級生から「なんでお前だけが着けないんだよ。マスクを着けろ、死ね」みたいに揶揄われました。先生が「何故マスクを着けないか」をみんなに説明しなかったからですね。不平等に映って当然です。担任の先生に質問しました。僕「僕の書いたレポートをみんなに配ることはできないのか?」先生「上の対応とは違うからそれはできない」僕「僕が勝手に配るとしても?」先生「できない」

言われたことを無視して僕が勝手に配ってもいいのですが、学校からでないと「頭のイカレタやつ」で終わるので配りませんでした。僕は出したレポートの中で五教科の先生達に質問をしています。質問と言ってもコロナの質問ではありません。何故今世の中で起こっていることを授業に反映させて教えないのかを質問しました。コロナ騒動では学校で習った概念を使って考えることができます。数字を見る時に数学の概念を使いますが、計算で使うのは小学校の割り算や掛け算なので、つまり算数でも考えられます。単純にインフルエンザの数字とコロナの数字の大小を比べてみるだけでも色々なことがわかるのです。

 2020年にはおかしな日本語が多く生み出されました。「自粛要請」は日本語としておかしいですよね。国語の先生はおかしいと思わないのでしょうか。学校、特に義務教育は世の中で生きていくために最低限の知識を教えるところです。今起こっていることを教材にするのが一番いいのではないでしょうか?こういう思いから五教科の先生達に質問しました(2020年6月)。すべての先生からの返答はいまだに戻ってきていません(2021年9月現在)。もう1年以上経っているのですが、未だに無視されている状況が続いています。僕も2年生から3年生になり、教科担任も変わりました。今年の先生が僕の事をどう思っているかは知りませんが、難しい事を聞いていないのだから早く返答が欲しいですよ。

 返答しない件について各先生方はどのように考えているのでしょうか?コロナに関する事だから返答しないのでしょうか?普通子どもが「宇宙ってどこまであるの?」と質問してきたら、どのような形であれ答えますよね。「どこまでも続いている」「私にはわからない」のように、普通に返答があると思うのです。ですが僕の場合は無視され続けています。人として、聞かれている事には答えるべきですよね。質問に対して無視する人とお付き合いできますか?先生と生徒の関係だけでなく、無視する人との付き合いは断って当然と思う僕はおかしいでしょうか?

*********************************丸本大仁著『大人達への失望』より**************

今日私に与えられた聖書のメッセージです。

ヨハネ9章39節『イエスは言われた。「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」・・・40歳以下の日本の世界ナンバーワンは、何だと思いますか?残念ながら、『若者の自殺率』です。丸本君のお話にありましたが、中学校側の対応はマニュアルどおりで、それなりに分かる気もしますが、やはり、柔軟な姿勢も必要なように思われます。

 イエス様は、通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられました。「私は、世にいる間、世の光である」。こう言われてから、地面に唾(つば)をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになりました。そして、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。そこで、彼は言って洗い、目が見えるようになって、帰ってきました。彼は物乞いをしていましたから、周りからよく知られていました。その日は安息日でしたのでユダヤ人の律法においては仕事をしてはなりませんでした。病気を癒すことも、唾で泥をこねることも仕事としてみなされていたのです。それで、ユダヤ人たちは、この男の癒されたことを否が応でも認めないことに決めました。この男は、ユダヤ人の会堂において、「イエスという人が、『シロアムに行って洗いなさい』と言われ、そこで洗ったら、見えるようになったのです」と正直に証をしました。ユダヤ人の中でも厳格に律法を守っていたパリサイ人たちの間で議論になりました。それで、再度その男は教会の責任者たちの前に呼び出されます。「お前はあのイエスをどのように思っているのか?」と聞かれ、男は「あの方は預言者です」と答えました。しかしこれでも彼らは信じませんでした。両親までも呼び出して、「息子は最初から目が見えていたのではないか」と問うことまでして、そのことを打ち消そうとしました。両親は、「生まれつき目が見えなかった息子の事は知っている。息子はもう大人なのだから、目が開いた原因については、直接聞けばいいだろう」と突っぱねました。それで、ユダヤ人たちもますますイライラして、もう一度、男を呼び出しました。そして、「我々は、イエスが罪ある人間だと知っている、奇跡など起こせるはずがない。お前たちは何かを企んでいるんだろう、何もかも白状しろ!」と迫ってきました。男はすでに話したのにと、うんざりしながら「あの方は、神のもとから来られた方です。そうでなければ、私の目を癒すことなどできるはずがありません。今までこのような奇跡を行った人のことなど、一度も聞いたことがありません。この方こそ主なる神様にちがいありません!」と言い返しました。そうすると、ユダヤ人たちは怒って「お前は全く罪の中から生まれ、罪びとの分際でありながら、我々に教えようというのか。我々は神から選ばれたから、間違いがない。我々が正しいのだ。でたらめなお前は、たった今、この教会から追放だ!」などと言い返し、男は教会の外に追い出されました。

 それを聞かれたイエス様はこの男に会いに行かれ、冒頭の聖句を言われたのです。「私がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。これを隣で聞いていたファリサイ派の人々が、「我々も見えないということか?」と怒りをあらわにして、イエス様に質問したのです。そうするとイエス様は、「見えなかったのであれば、罪はなかったのであろう。しかし、今『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と返されました。

 この状況は、さきほどの丸本君の学校の出来事によく似ていますね。何も考えず、漫然と過ごす。マニュアルにしか頼れない。賢く世の出来事に適応できない。丸本君のそれぞれ五教科の教師への実践教育のリクエストは、とても時宜に適っていると思いました。イエス様に直面したとき、その中に愛すべきもの、尊き眞を見出し、自分の無知にめざめ、よりよく見、より多く知ろうと欲する者は、その目が開かれ、もっともっと深く真理へと分け入ることを赦されます。自分が絶対に正しく、それを知り尽くしていると考え、自分が無知であることを悟らない者は、ほんとうの無知であり、その状態は全く絶望的で、手の施しようがありません。自分の弱さを理解する者だけが、賢く生き抜くことができます。自分が無知であることを理解するものだけが、見ることを学ぶことができます。自分の罪を理解する者だけが、赦されることができます。自分の周りの悪の存在に目が開き、永遠の愛に目覚め、慈しみに富んだ愛の働きに大きな喜びを感じれるのです。「友のために自分の命を捨てること」(ヨハネ15:13)に大きな使命を見出し眞の命に目覚めるのです。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

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