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あわれな者!

  • 執筆者の写真: 耕司 大平
    耕司 大平
  • 2023年4月8日
  • 読了時間: 7分

2023年4月8日(土)    「あわれな者!」    LT(Loving Time)大平耕司

イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子について、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うであろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ14章7~11節)

 とても分かりやすいイエス様のたとえ話です。日本人にとっては、特に遠慮するという言葉があるので、よく分かるのではないでしょうか。・・日本間だと、床の間に近い方が上席です。ホールだと、正面の中央席に近い席が上席です。そうすれば、そこから遠い所に大抵の人は座ろうとします。すると主人がやってきて、そんなところではなく、こちらへと上席に無理にでも座らせてくれます。そこで面目が立ちます。しかし、そのような案内がなく末席に座ったままでいると、つかつかと入ってきて、何も気にすることなく自分よりも上席に座る人がいます。するとその人への嫉妬や、悔しさが残るかもしれません。イエス様は、そのような宴席でのエチケットを論じたり、社交場の知恵を、ここで教えておられるのでしょうか?・・・イエス様は、婚宴の招待を受けたときの事を話しておられます。日本の結婚式では、遠慮したりするので、きちんと予め席が決まっています。では、ユダヤ人はそうではなく図々しいのでしょうか。そんな単純な問題を論じてはおられません。日本人でも、内心は自分が上席に座って当然だという思いがあっても、初めからそうすると周りから何か言われたり、思われたりするという恐れから遠慮したりします。だから、そこの主人へ自分への配慮を期待するのです。そのようにならなかったら内心腹を立てたりします。私たち人間は自分がどのように扱われているか、そのことをいつも気にしています。それは、幼い頃から始まっています。兄弟間でも、親の自分に対する態度を敏感に感じています。不公平、不平等に扱われると、ひどく傷つきます。要するに、イエス様は、私たちの生き方の基本に関する、いつも上席争いをしている根本姿勢について諭しておられるようです。それと、ここでは、婚宴の席が舞台になっています。イエス様はときどき婚宴のお話をされました。婚宴は、神の国にたとえられるとお考えになっていたからです。神の国の生活は、神様と私たちが深く親しく交わり、人間同士も神様の前で親しく交わる生活です。温かな父親に迎えられた、放蕩息子の物語(ルカ15:11~)においても、その後の日常の食卓で同じ深い愛の交わりの時となったでしょう。そのとき、息子は、決してここでイエス様が戒めておられるような間違いをして、上席に座るようなことはしなかったでしょう。食事の席は愛の交わりの最も具体的な表現なのです。神の国は、このように私たちの人生の中で、最もご馳走が多く、最も賑やかで楽しい席、喜びの婚宴の席と同じだと言われるのです。この喜びの席を用意してくださるのは、もちろん神様です。神様が、神の国においては、まるで婚宴の席に招くように、私たちをもてなしてくださるのです。神の国、神の婚宴の席に生きること、それが信仰です。その招きに私たちがどのように応じるか、その姿勢が問われているのです。そして、最後に「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と主は言われました。「高ぶる者」と「へりくだる者」、二種類の人間を考えておられます。つまり、一方はユダヤ人であり、他方は異邦人、あるいは、ユダヤ人の中でも律法学者、ファリサイ派の人々と、他方は罪人、徴税人と呼ばれている人々です。自分たちは神の上席に座るのは当然だと確信している人々と、自分はそのようにされるのはふさわしくないと思っている人々です。自分は少しもそれにふさわしくないあわれな者なのに、こんなにももてなしてくださるということを、分かっている人が神の国にふさわしい者となることを、ここでは教えてくださっています。

さて、今日私に与えられた聖書のメッセージです。*********************************

ルカ18章14節『言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』

・・・これは、イエス様のたとえ話です。『自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人でもう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもないことを、感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください』。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。』 (ルカ18章9~14節)・・・ここでも二種類の人たちの姿をイエス様は、明瞭に区別して語っておられます。二人とも神殿で祈っています。しかし、その祈りにおいて、はっきりした違いを示しました。一人は自分の義しさに確信を持ち、もう一人は、自分は義しさを実現していないと認めているのです。そして、神様がその義しさを認めたのは、あとの人でした。義人、義しさ、義認、ここで言う「義」とはいったい何でしょうか。一般的には道徳的な意味で正義感があるとか、正義を実行する人となるでしょうが、ここでは、何よりも、神様との関わりが正しいことを意味します。徴税人のほうが、神様との交わりを正しく生きていたことを認めてくださいました。私たちが神を神として正しく拝むようになること、それが人間の義です。そうなる時に、神様との関係が尊ばれていることになり、それが基本になります。このように、神様との関係が整ってくるときに、他人との関係も整ってきます。あるいは、あの失われた放蕩息子(ルカ15:11~)において、自分自身との関係も正しく整ってきました。そこに正義が生まれてきます。イエス様は、ファリサイ派の男の祈りについて、問われています。祈りとは、神様への懇願です。罪人である私たちは、いつも欠けているものがあるので、神様の恵みを常に祈り求めるのです。そして、感謝の祈りをささげるのです。神様からの賜物なしには生きることはできないからです。しかし、このファリサイ派の男の祈りは、懇願でもなければ、真の感謝でもありません。彼は、確かに忠実に献金をささげ、断食もしているのでしょう。嘘ではないと思います。そのことを本当に神様に感謝しているのであれば、他人と比べて胸を張ることはないはずです。この感謝の言葉によって語られているのは、むしろ誇りです。ここに「高ぶる者」の姿を見ておられます。神の憐れみによって命を与えられ、その恵みによってすべてが与えられていることの根本的な感謝の心が皆無です。さて、もう一人の徴税人はどうでしょうか。「罪人の私を憐れんでください」としか祈りようがなかったのです。自分は神様との正しい関わりに生きることができない。どうしていいのかわからない。ただ胸を打ち、自分の悲しみや苦しみにある罪人に憐れみをください、と懇願するしかなかったのです。・・第二次世界大戦の時です。ドイツの牧師が、従軍牧師としてロシア戦線に赴きます。そこである脱走兵の銃殺に立ち会うことになりました。そしてその隊長に会います。その隊長も実はかつて牧師でした。また、そのすべてを命令した極悪な憎たらしい将校がいます。彼もかつては牧師でした。しかし信仰を捨ててナチに迎合して将校になったのです。 

従軍牧師と牧師であった隊長、そして銃殺に立ち会わされた人々が胸を痛めて一晩語り合い、祈ります。「自分たちは正しいと生きてきた。しかし罪から自由になれない。憐れな罪人をお赦しください」。・・生きていること自体が罪である、あわれな者、それが私であると深く気づいて生きるならば、そして、それに胸を打って祈るならば、イエス様は必ず憐れんで、罪を赦し義としてくださいます。イエス様の恵みと愛に深く感謝しましょう。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         

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