これからどうやって生きる?
- 耕司 大平
- 2022年1月29日
- 読了時間: 6分
2022年1月29日(土) 「これからどうやって生きる?」LT(Loving Time)大平耕司
日本では2020年の3月に本格化した新型コロナウイルス禍から、まもなく2年となります。不安をあおるメディアの報道や、政権による場当たり的な自粛の要請が世相を萎縮させ、私たちの社会全体が、すっかり「うつ病的」になってしまいました。女性や子どもの自殺者の異例なまでの増加は、死に至る疾患としての「文字どおり」のうつ病が増加していることをうかがわせますが、それだけではありません。どうにか危機をしのいでいるように見える「健常者」の一人ひとりにすら、いまやうつ病に近いともいえる傾向が忍び寄っていると、私は考えています。
コロナウイルスの「感染者数」への異様な注目の高まりこそが、まさにその症状です。2年近くの間ずっと、多くのメディアがトップニュースに「今日の感染者数」を掲げ、もっと自粛が必要だ、減ってきても油断するなとあおり続けました。
その結果として私たちは、いわば「数値過敏症」のような状態に置かれています。今日は外出しようか、やめようかを、ニュースで目にしたその日の感染者数で決めてしまうといった事態は、いまや日常茶飯事であり珍しくもありません。
新型コロナ以外の感染症――たとえばインフルエンザの際には、私たちはそうしたやり方では意思決定をしなかったはずです。週末の飲み会につきあうかどうかは、ワイドショーの出演者が掲げるグラフではなく、なにより「自分の身体」に聞く。体調ばっちりなら出席し、少し不安を感じたら辞退させてもらう。そう対応するのが普通でした。
あまり知られていませんが、こうした身体感覚が狂ってしまう、「自分自身の感覚を信じられなくなる」というのは、実はうつ病が最重度になったときの症状でもあります。
・・・コロナ以前からずっと続いてきた、不安で人を動かす社会の末路が、目下の「一億総コロナうつ病」状態でした。私たちがそこから立ち直るには、逆に「安心で人を動かす社会」の実現が欠かせません。第一歩はまず、「どうしても数字が気になり、いつしか依存してしまう」生き方自体が、強い不安にさらされたがゆえの「症状」であると気づくことです。たとえば本当に私生活が充実しているとき、人は「俺には友達が何人いるか」なんて逐一数えません。ついつい数えてしまうのは、「自分は嫌われているのでは」「魅力のない人間なんじゃないか」といった不安にとりつかれ、孤独感の虜になっているときですね。逆にいうとSNSでフォロワーや「いいね」の数を気にかけ、「アイツよりは多くないと」と競う人が増えたのは、それだけ孤独が深まったからですよ。人間関係を「数値」にして可視化したことで、かえって症状が悪化しているわけです。
数字を気にかけなくても、「まぁなんとかやっていけてるじゃないの」という状態が、はじめて安心感を作る。数値化とは本来、その状態に達するための補助具――たとえば「俺にだって〇人はフォロワーがいるじゃないか」といったものでなくてはいけない。
私はうつで入院した時、作業療法室で料理が得意な人とよくケーキを焼きました。あまりに美味しいので驚いたら、「お菓子類はレシピの分量が決まっているから、きっちり守れば必ず上手に作れますよ」と教わった。そうした状態を経て、次第にいろんな調理ができるようになっていきました。
数値にこだわる営みは、あくまでも「不安から安心へ」の過渡期にのみ行われる対症療法、リハビリ療法として捉えるべきなんですね。ゼロコロナ幻想とともに数値化信仰の破局を見たいま、私たちは発想を転換してゆく時だと思います。
**********************1/24(月) 5:57 Yahoo!ニュース 162より抜粋***********************
さて、今日私に与えられた聖書のメッセージです。
マルコ2章9、11節『この人に「あなたの罪は赦された」と言うのと、「起きて床を担いで歩け」と言うのと、どちらが易しいか。・・「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。」』・・・イエス様はガリラヤ湖畔のカペルナウムのある家で教えておられました。そこには多くの人々が教えを聞こうとして、ユダヤからもガリラヤからも来ていて、家は入口までいっぱいになっていました。そこへ、4人の男によって体の麻痺した病人が運ばれて来ました。ところが、中へはいる余地がありません。そこで、家の外側から屋上に上がる階段をのぼり、屋根をはいで、穴を開けました。当然、土やほこりがぽろぽろと部屋の中に落ちたでしょう。家の中の人々はとても驚き、慌てたに違いありません。そこへ体の麻痺した男が床のままつり下ろされました。そこで、「イエスはその人たちの信仰を見て」(同5節)とあります。それは、病人を含む4人の人たちのことです。病人はもちろんのこと、その人を運んで来た4人の熱心を、主は信仰と認められました。そして、その病人に「子よ、あなたの罪は赦された」(同)と言われました。「子よ」とありますが、それは、ご自分の家族として迎え入れたということです。そして、罪の赦しを伝えられました。アダムとエバの時代、人間が罪に陥る前までは、苦しみも病気も死もありませんでした。神と離れた結果が罪です。その罪の結果として人類に苦しみが入ってきました。それで、イエス様はその根本原因の罪の赦しをまず与えられたのでした。
このイエス様の御言葉は、彼らが求めてきたものとは違いました。イエス様は病気の癒しではなく、罪の赦しを与えられました。人々は今現実に表れている結果だけを見て、その解決を求めようとします。多くの人々が、今日でもすべての不幸と悲惨の根本原因である罪を悟らず、そして罪の赦しを求めないで、ただ毎日の生活の平和と幸福のみを求めています。しかし、罪の赦しなくして肉体の健康はむなしいことを覚えたいと思います。
イエス様が罪の赦しの宣言をしたとたんに、これを聞いていた律法学者たちは、心の中で「この人は、神を冒涜している」(同7節)と言いました。神以外の者が罪を赦すなどとは、とんでもないと思っていたからです。彼らは神を熱心に求めていたからではなく、イエス様に対するねたみと敵意からそう考えていました。それを見抜いたイエス様が、冒頭の聖句を語られたのでした。イエス様は「とちらが易しいか」と質問されました。罪を赦すことと、病気を癒すこと、そのどちらがたやすいかということです。イエス様にとってはどちらもたやすいのです。しかし、人間にとっては、罪の赦しを言うことは簡単ですが、その結果としての病の癒しは、不可能です。だから、イエス様は、律法学者たちが反論の余地が無いように、その結果を示されました。ご自身が神であることの権威と証拠をお示しになったのでした。もちろん、イエス様が人間の罪の身代わりとなられ、その代償を支払われた、このお方のみにこそ、その権威があることを、私たちは知っています。
「床を担ぎ、家に帰りなさい」このイエス様の御言葉によって、病人は麻痺していた体全体に力が入り病が癒され、その場で起き上がり、床を担いで、人々が見ている前の歩いて出て行きました(同12節)。ある聖書学者が、『病人が心身共に健康を回復したように,神のいやしは人間の生活全体―政治、経済、社会、文化の側面―をその根本から変革するパン種的力を賦与する』と言いました。罪赦されて生きる私達には、社会がどうであろうと、人々が何と思おうが、イエス様の前に出て、罪で暗くなった己の心と、この世の有様を認め、悔改めて罪の赦しを乞い、「床を担ぎ、家に帰りなさい」の御言葉に、癒されて起き上がり、喜び勇んで歩き出すのです。ある時には、イエス様が誰も忌み嫌ったライ病人に触れられたように、私たちも愛の行為を示すのです。罪人には不可能な、病の癒しの結果を示すのです。今、この世の「愛の冷え切った」有様を見て、悪魔が手を打ち叩いて喜んでいます。私たちも同じように隣人を疑い、怖がり、引きこもり、保身の為に生きますか?或いは、ゼロコロナではなくイエス様にあるゼロ罪状態をイキイキと生きますか?
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