イエスの使命に生きる!
- 耕司 大平
- 2023年1月7日
- 読了時間: 6分
2023年1月7日(土) 「イエスの使命に生きる!」 LT(Loving Time)大平耕司
1999年、父は癌で召されました。最後の一週間、父は病気のために意識がもうろうとして、ほとんど一日24時間眠ることができない状態にありました。また、夢を見ていたようで、大きな声で寝言を言っていました。父の枕元に座ってその寝言に耳を傾けながら私は父について多くのことを学びました。父は何度も、教会堂の建て替えプロジェクトに取り組んだのです。いよいよ最期の晩を迎えた時、妻と姪と私がベッドの傍らで父を見守りました。すると突然、父が体を動かして起き上がろうとしました。もちろん、彼に起き上がる力が残っているはずもなく、私の妻が横になるように勧めたのですが、父はそれでも起き上がろうとしたのです。そこで私の妻が言いました。「ジミーおじいちゃん、何をしようとしているの」。すると彼は答えました。「イエス様のためにもう一人救わなくては!イエス様のためにもう一人を!イエス様のためにもう一人を!」彼はその言葉を何度も何度も繰り返しました。
父はそれから一時間ほどの間、その言葉を恐らく100回は繰り返したでしょうか。私は父のベッドの横に座りながら、涙が止まりませんでした。私は頭を下げ、神に父の信仰を感謝しました。その時、父はその弱りはてた手を伸ばして私の頭の上に置き、私を任命するように、「イエス様のためにもう一人を!イエス様のためにもう一人を!」と言い続けたのです。
私は、これが私に残されたテーマだと思っています。そして、あなたにもこのことを最大の関心事としていただきたいのです。なぜなら、このような永遠の違いをもたらす働きは他にないからです。もし神に用いられたいと願うなら、神のみこころを自分のものとしなければなりません。神が最も気にかけておられることは、ご自分でお造りになったすべての人々の救いです。神は、その失われた子供たちを探し求めて日夜働いておられます。神にとって、これ以上大切なことはありません。十字架がそのことをはっきりと物語っています。私は、あなたがいつも、「イエス様のためにもう一人を!」という気持ちを持ち続けることができるように祈ります。そうすれば、いつか神の前に立つ時、あなたはこういうことができるでしょう。「私は自分の使命を全うしました」。
************************リック・ウォレン「五つの目的」377、378頁より*****************
さて、今日私に与えられた聖書のメッセージです。
フィリピ2章6~8節『キリストは・・人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。』・・・聖書には、「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:35 ,36)とあります。もともと、この世は神様によって造られ、神様のみ旨の愛によって生き、神様に従って永遠に生きるように創造されました。神様のご支配によってこの宇宙は存在しています。しかし、アダムとエバが罪に陥って以来、この世は悪魔の支配になってしまいました。罪の影響はすべてのものを破壊してしまいました。そして愚痴、不平、不満、恐怖、疑い、心配、嫉妬、争い、災い、病気、死、滅びなどが永遠の祝福の喜びにとって代わって、日常の事となったのです。
ある時に、イエス様が神殿の境内で、人々に教えておられると、そこにユダヤ人の律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエス様に向かって言いました。「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。あなたは、どうお考えになりますか」。彼らはイエス様を試し、訴える口実を得るための目的でこう質問しました。イエス様が、ユダヤ人の律法に従って「この女を殺せ」と言えば、当時ローマに支配されていた彼らは、「死刑にする権威はローマ当局にある」と言って、イエス様をローマ総督に訴えることができました。あるいは「この女を許せ」と言えば、ユダヤ律法に反するので彼らによって裁かれることになるのです。それを聞くとイエス様はかがみ込み、指で地面に何か書き始められました。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエス様は身を起こして言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられました。これを聞いた者は、不思議と年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエス様ひとりと、真ん中にいた女が残りました。それはなぜかというと、イエス様が地面に彼らの隠された個人的なそれぞれの罪を、書き出されたからだとされています。そして、イエス様は、身を起こして言われました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」。女が、「主よ、だれも」と言うと、イエス様は言われました。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これから、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:1~11)。
このやり取りには、とても興味深いものがあります。それは、イエス様が彼らに背を向けて、地面に向かわれたことです。つまり、イエス様が裁く者の罪を問われていることです。だから身をかがめて、顔を背けておられます。このお姿は、神様御自身が人間の歴史に、人間が批判し、裁き、判断を下して実行したりしていることについて、はっきりと背を向けておられるのを見ることができます。私たちは、人々の罪を指摘する喜びに酔うものです。テレビニュースを見たり、新聞を読んだりする時に、いつも、そういう正義感に酔いしれるところがあるし、マスコミなどジャーナリズムというものは、そのような大衆の正義感をくすぐるようにして、批判や評価を繰り返しています。そのほうが視聴率が高くなるからです。律法学者やファリサイ派だけではなく、周りの群衆もまた、同じような快感を持ちイエス様と女を見ていたのです。最近は、フェイクニュースやプロパガンダ(嘘、歪曲、情報操作、心理操作)などを使った情報戦が民衆を扇動し利用しています。
「あなたがたには裁く資格はないのだ」とイエス様は言われます。厳しい神の裁きが彼らには聞こえました。年長者から始まってひとりひとりと立ち去って、最後はイエス様と女だけになりました。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これから、もう罪を犯してはならない」と言われるイエス様の言葉に、この女は、真に裁く資格を持つ神の姿をイエス様に見出しました。そして、後日、十字架にお架かりなりこの女の罪の身代わりになられた神の愛の姿をイエス様に見ることになるのです。そこにイエス様の大きな使命があります。私たちの日々は困難や心配、理不尽な出来事がいつも付きまとい、愚痴と不平,そして批判が常に口から出てくるようになりました。常に相手を裁き、正義感に酔いしれ,自分が神になります。「飼い主がいない羊」とはそのような哀れな私たちのことです。イエス様は、人間のそれとは正反対の道を歩まれました。愚痴、不平、批判とは無縁に、ただただ、神様のみ旨に従って人生を歩まれたのです。罪にあえぐ人々の救いのために、右にも左にもそれず、神様を見つめて日々歩まれたのです。私たちもイエス様の使命に生きる時に、新たな希望への旅路が始まるのです。2023年から新たなスタートです。
Comments