クリスマスの目的!
- 耕司 大平
- 2022年12月17日
- 読了時間: 7分
2022年12月17日(土) 「クリスマスの目的!」 LT(Loving Time)大平耕司
ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサという人の名前を聞かれたことがあると思います。インドのカルカッタで貧しい人々のために長い間奉仕をされていた修道女です。マザー・テレサは、インドの裕福な子供たちを教えるカトリックの高校の校長先生でした。ところが、ある時に列車で旅行していた時、「今の仕事を捨てて、貧しい人々のもとに入っていきなさい」という神様の声を聞いたのです。その声に従って校長職を捨てて、インドで最も貧しいスラム街があると言われる大都会のカルカッタに出て行きます。インドで貧しい人達が着る衣装のサリーという服に着かえて、彼女はその街に出て行ったのです。
マザー・テレサがいちばん最初にカルカッタの街を歩いたのは、夜になってからのことでした。陽が沈んで、真っ暗な中を歩いていました。あちこちに路上生活者と呼ばれる方々がいます。「路上生活者」とは、道端で生まれ、道端で生活し、道端で死んでいく人々です。生涯一度も屋根のある家に住むこともない貧しい生活の人々がたくさんいます。彼女はその晩、病院に続く路地を歩いておりました。すると、その道の向こう側に、路上生活者である一人の女性が倒れていました。息も絶え絶えでした。
マザー・テレサが近づくと、数匹のネズミが彼女の身体を襲っていました。ネズミを追い払うようにして、マザー・テレサは女性の顔の近くに腰を降ろし、女性の手を握ります。手を握られた女性はありったけの力を込めて目を開きました。マザー・テレサと視線が合います。マザー・テレサが微笑むと、その女性の口元もちょっとほころんで、また目を閉じる。その晩、一晩中マザー・テレサはその女性の手を握り続けました。しかし夜が明ける前に、その女性は息を引き取っていまいました。
この最初の晩の経験の中で、マザー・テレサは一つの事実を、まるでスポットライトを浴びたかのようにはっきりと知ることができたと言います。それは、『人間にとって最大の難病は、ガンでも結核でも、脳梗塞でも心臓病でもない。それは、生きることをもはや誰からも望まれず、自分という存在が誰からも愛されていないという感覚そのものだ』という事実でした。その晩、路上生活者の中の貧しい女性はたった一人で死んでいったのです。マザー・テレサがそこにいなければ、「頑張って、お願い、死なないで!」と声をかけてくれる家族も、涙してくれる友もなく、孤独のうちに死んでいかなくてはなりませんでした。こんな寂しいことがあるのだろうか。生きることを誰からも期待されず、自分の存在そのものが誰からも愛されていないと感じるこの感覚。これが人間にとっての最大の難病だと悟ったとマザー・テレサは言います。後に彼女はこのように書いています。『孤独と寂しさは一つの病気である。これを癒すのに西洋の医学も東洋の哲学も社会福祉もなんの役にも立たない。これを癒すことができるのは、彼らを本当に愛する者だけである』。
マザー・テレサはカルカッタで大きな家を借り、「死を待つ人の家」という看板を掲げます。道端でまさに死にかかっている人々を連れてきて、身体を洗い、新しいきれいな服に着せ替えて、最後の数週間、あるいは数日間を共に過ごすのです。手を握っては微笑みかけ、語りかけながら、「あなたがこの地上に生まれてきたことを私たちはしっかり覚えていますよ」というメッセージを発します。すると人々は、孤独や寂しさの中で息を引き取るのではなく、最後に誰かから愛されたという実感を持って、本当に安らかに息を引き取っていきます。そういう働きを彼女はしました。マザー・テレサが日本に来た時、若者たちがその話に感銘を受け、カルカッタで奉仕をしたいと申し出ました。その時彼女は、「来る必要はありません。日本の貧しい人、寂しい人に寄り添って下さい」と語りました。
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さて、今日私に与えられた聖書のメッセージです。
ヨハネ3章16節『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』・・・ユダヤ人の中でも超まじめなファリサイ派に属する、ニコデモという人がいました。ユダヤの最高議会のサンヒドリンの議員でもありました。ある夜、彼がイエス様のもとに来て言いました。「先生、私たちは、あなたがた神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」。イエス様はそれに答えて言われました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。ニコデモは言いました。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」。イエスはお答えになりました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くのかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」。するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言いました。イエスは答えて言われました。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。私たちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたは私たちの証しを受け入れない。私が地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子もあげられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神はその独り子をお与えになったように、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
イエス様は、ニコデモの心の本心を見抜いておられました。「神の国」について知りたいし、イエス様が旧約聖書の預言に基づいて来られた救い主かもしれないという期待でした。ユダヤ人は神から選ばれた民族で救い主の到来を待つ人たちでした。ところが、何千年という長い間にその約束が形骸化し、儀式を取り持つ司祭とか聖書の専門家などの特権階級が権力や利益のとりことなり、一番大事な救い主到来の預言をないがしろにしていました。それどころか、イエス様の存在が彼らの権力保持にマイナスに働くので、抹殺しようというとんでもない方向に動いてしまいます。これらはすべて人間の罪の働きです。イエス様は、そのような人間の罪を基礎とした生き方から神の愛に寄って立つ信仰に生きることを導かれます。そのためには、神の聖霊により生まれ変わる必要を説かれました。罪は人を殺します。しかし、神の愛は人を生かし永遠に甦らすのです。イエス様は、ご自分が地上に来られた目的をはっきりと話しておられます。それは、アダムとエバ以来、創造主であられる神の愛から離れ、自己を神とする自己中心(罪)の人間社会になり、お互いに支配し平気で傷つけ合い、罪の結果滅びる運命と化した人間の回復を目的とされました。愛への回復です。それは、最初に人間を永遠に生きる者と創造された存在への回復であり、神の愛の回復です。そのためには、罪を犯さない清い神が人となり、罪人の私たちが永遠に滅びる代わりとなる必要があったのです。ですから、旧約聖書で預言された事例をイエス様は話されたのです。それは、モーセの時代に神に逆らい罪を犯した神の民があちらこちらに出現した毒蛇に噛まれ、子供から大人まで多くが重病を引き起こし命が助からないといった時に、竿に掲げられた青銅の毒蛇を見上げた者は癒されたという事件(民数記21:9)でした。これは罪の身代わりのイエス・キリストの十字架の死を預言していました。
クリスマスとは、救い主イエス・キリストの誕生日を祝う日として制定されました。その誕生の目的は、人類全体の永遠の命の回復です。神から離れすべてが破壊と滅び(孤独と寂しさ)に向かう悪魔の運命から、愛と祝福(歓びと希望)に満ちた永遠の関係回復への旅路です。『憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う』(箴言10:12)。
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