シャローム!
- 耕司 大平
- 2022年7月30日
- 読了時間: 7分
2022年7月30日(土) 「シャローム!」 LT(Loving Time)大平耕司
経書を読むにあたって、第一に重要なことは、聖賢におもねらないことである。もし少しでもおもねるところがあれば、道は明らかにならないし、学問をしても益なく、かえって有害である。・・・吉田松陰は1830年に長州藩(現在の山口県)の下級武士の家に生まれました。貧しい家庭で育った一方で、藩主に対して兵学の講義を開くなど、豊富な知識で周囲からも賞賛を浴びていました。そして、わずか19歳にして、兵法の師範として生計を立てるようになったのです。しかし、時代は激動の幕末。1842年に起こったアヘン戦争では、2年にわたる長い戦争の末、清(現在の中国)がイギリスに敗れるなど、日本も清のように欧米諸国の攻撃を受けるのではないか・・・そういった危機感が日本で高まっていきました。そこで、20歳を過ぎた吉田松陰は、より知見を広めるため、日本全国を巡る旅に出発します。そんな旅の途中、浦賀でペリー率いるアメリカ東インド艦隊を目撃。いわゆる、「黒船の来航」を目の当たりにした吉田松陰は、黒船に忍び込んでアメリカに密航することに・・。しかし、計画はあえなく失敗し、萩(現在の山口県)にある牢屋に幽閉(一年半)されてしまうのです。その時一緒にいた囚人たちに、『孟子』を教えつつ書かれたのが、冒頭の『講孟余話』(こうもうよわ)です。序説の部分ですが、意味は、『儒教の教えを学ぶにあたって、第一に重要なことは、聖賢とよばれる孔子、孟子たりとも、彼らにへつらったり真似して、自分の道を曲げてはならない。もしそうなれば、人の道は見えてこないし、学んでも益はなく、かえって有害となる。』この背景には、『孔子、孟子の教えはいいが、彼らは個人的には、生まれた国を離れて、他国の主君に仕えようとした。しかし、我々は、どんなことがあっても自分がお仕えしている君主に「忠誠」を尽くすべきであって、他国に行くことなどできない。』というものでした。つまり、『武士道』の精神が色濃く反映されており、当時、アメリカなど諸外国の植民地化の軋轢にも心して動じるな、との思いがあったのです。さて、自由を奪われてしまった吉田松陰でしたが、その後、自宅での謹慎を命じられます。すると、自宅には多くの若者が集まり、それまでの経験を生かして塾を開きました。その時に開いた塾が、のちの松下村塾(しょうかそんじゅく)に発展します。松下村塾には多くの人が集まりました。その中には、明治維新に活躍した高杉晋作や久坂玄瑞(くさかげんずい)、木戸孝允(きどたかよし)、そしてのちに内閣総理大臣として活躍する伊藤博文や山県有朋(やまがたありとも)など、近代日本国家の基礎を築いた著名な人物も多く通っていました。松下村塾がこれほど多く偉人を輩出できた秘密は、吉田松陰の教育方法にあります。松下村塾には武士はもちろん、農民や町民などさまざまな身分の人が通いました。90名を超える生徒が通いながらも松下村塾には月謝などは存在しませんでした。その結果、従来の教育機関では学ぶことさえできなかった身分の人も、学びの場を得られるようになったのです。この期間、なんと、わずか一年ちょっとでした。やがて、安政五(1858)年四月、井伊直弼(なおすけ)が大老となり、日米修好通商条約が調印されました。その調印には、朝廷の勅許(ちょっきょ:認可)が必要でしたが、無勅許で調印したのです。これに激昂した松陰は、長州藩主を通して幕府に抗議をします。ところが、ここで「安政の大獄」が強行され、長州藩は幕府を恐れて、松陰を再び牢獄に入れました。この時の有名な言葉が、『草莽崛起(そうもうくっき)、あに他人の力を借らんや。恐れながら、天朝も幕府も、吾が藩もいらぬ。ただ六尺の微躯(びく)が入用』つまり、草莽とは草むらのこと。すなわち『権力に頼まず、在野(ざいや)の志士たちよ立ち上がれ』との意味です。この激が門弟たちを動かし明治維新の原動力となっていったのです。
この後、松陰は、江戸に移され処刑されます。その最後に、遺書ともいうべき『留魂録』(りゅうこんろく)をつづり、その冒頭に、『身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし大和魂』の歌を書き記しました。つまり、『大和魂とする己の命をかけて日本を守る』
その精神が、後世に受け継がれていくことの尊い道への願いを込めたのでした。
松陰は「わが死は公のためである」として、処刑の場に居合わせた関係者に「ご苦労様です」と挨拶して、心静かに笑って死んだといいます。享年30歳(1859年)でした。
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今日私に与えられた聖書のメッセージです。
ヨハネ20章19節『その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。』・・・イエス様は、金曜日の朝9時に十字架にかけられて息を引き取られたのは、午後3時でした。そして、安息日である土曜日を休まれて、週の第一目である日曜日の朝、復活なさいました。イエス様から罪を赦してもらい、心を改心させていただき、聖められ、人生が一転したのは、マグダラのマリアでした。彼女は、多くの罪を犯し、多く愛しました。彼女のささげうるのは愛だけでした。ですから、イエス様が納められたお墓に誰よりも早く来たのです。しかしそこには、入口の石が取りのけられ、イエス様の遺体が消えていました。憎しみをもっているユダヤ人たちに持ち去られたものだと考えたマリアは、墓のそばに立って泣いていました。そうすると「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」という声が聞こえました。
墓の管理人かと思い、「あなたがたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたか教えてください。私が、あの方を引き取ります。」と言うと、「マリア」とイエス様が応えられました。マリアは、イエス様だと気づいて、振り向きました。そうすると、イエス様は、「私は間もなく父のみもとに帰る。その前に私はできるだけ多く弟子たちに会っておきたい。この祝福のニュースを早く弟子たちに知らせてあげなさい」と命令されました。そして、マリアは弟子たちのところへ行き伝えました。そうしていると、その日の夕方、弟子たちが集まっているところへ、イエス様が来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」(シャローム)と言われました。それは、「神があなたがたにあらゆるよいものを備えて下さるように」という意味です。それから、イエス様は弟子たちに使命を与えられました。「父が私をお遣わしなったように、私もあなたがたを遣わす」と。そして弟子たちに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい」と。これは、「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)を思いださせます。それは、紀元前600年頃活躍した預言者エゼキエルがたくさんの死に枯れた骨のある谷を見たときと同じ情景でした。彼は神が風に向かってこういうのを聞きました。「息よ、四方から吹いてきて、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」(エゼキエル37:9)。聖霊の到来は新しい創造のことを告げています。
そして、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(ヨハネ20:23)と言われました。これには注意点があります。当然、人間には、罪を赦す、赦さないの権限は誰にも与えられていないということです。ですから、これは、心に悔い改めのない者には、罪の赦しが与えられないということを警告すること、そして、悔い改めのある者には、罪の赦しを伝える権限が、教会の大いなる特権として与えられているということを意味しています。
こうして、イエス様が弟子たちに与えられた罪の赦しによる、この世のすべての富や喜びに勝る祝福なる希望を与えられたのでした。それは、他の誰よりも誠実で、決して裏切らず、どこまでもそばにいて下さる、愛の溢れるお方である主(王)であり、友であるイエス様のこと。そして、そのお方は、永遠の命を与えてくださり、なによりもこの世での私たちの悲しみや苦しみに対して、最上の報いをもって返してくださるのです。失われた喜びの経験、最愛の人に先立たれた無念、寂しさ、わびしさ、そして自らの死など、そのすべての罪の結果に勝る祝福をイエス様は返して下さるのです。『シャローム』から弟子や多くの人の人生が大きく変わったように、あなたと家族の人生も大きく変わるのです。
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