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シンプルに生きる!

  • 執筆者の写真: 耕司 大平
    耕司 大平
  • 2023年1月21日
  • 読了時間: 7分

2023年1月21日(土)  「シンプルに生きる!」  LT(Loving Time)大平耕司

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。・・」・・こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗になった。そして「シロアム・・の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。(ヨハネ9章1~7節)

当時のユダヤ社会において、特に体の不自由な人々は、神様からの罰でそのようになっていると考えられていました。何か罪を犯した罰、あるいは前世が悪かったと判断を下されていました。彼は人々から捨てられ、また神からも捨てられているという境遇にあって「なぜ自分だけがこういう目に遭うのか」という問いはいつも心の中に持っていたでしょう。周りの人々もそれを問題にしていました。つまり、なぜ、こういう不運、不公平なことが起こるのか。不幸な人間がこの世に生まれるのか。昔から問い続けられてきたことです。ですから、弟子たちも「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」と聞きました。しかし、イエス様は、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われました。「神の業が現れる」とはどういうことでしょうか。そのあとにこの男は目が癒されているので、そのことを指しているのでしょうか。でもただそれだけの意味でしょうか。またこの男だけの物語なのでしょうか。そうでしたら他の一切の生まれつきの盲人はやはり、絶望の生活をしなければならないのでしょうか。しかし、以前私が奉仕しました教会にも盲目の教会員がおられました。あるいは、私の友人にも光を失ったままに信仰を与えられ、そのあとに牧師までなった人がいます。ですからこの物語は、そういった人々に今でも「神の業」が語られているという現実を見ます。

それならば、この男に起こった、神の栄光が現れたという出来事は、いったい何であったのでしょうか。目の不自由な人がそのままでなお、この男と同じように味わうことができる神様の栄光の奇跡とは何なのでしょうか。この物語の後日談が聖書には書いてあります。かつて盲目であった男は、「自分はイエス・キリストというお方に救われた」そう言い続けたために人々に追放されました。それまでは物乞いをすれば、それでも恵みを与えられ生活ができました。今度はそれどころではありません。村八分にされてしまったのです。その男にイエス様が会いに来られ問いかけられました。「あなたは人の子(救い主)を信じるか」。すると、男は、「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」。イエス様は言われました。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ」。男は思わずひざまずき、言います。「主よ、信じます」。目が開かれた男は、その時救い主であるイエス・キリストを見て、信じ礼拝をしています。つまり、肉体の目を癒されることがなかった他の多くの人たちも、同じようにこの救い主イエス・キリストにお目にかかることが出来たのです。それは、神の業が現われ、神の栄光の奇跡が行われたという意味は、たとえ肉体の目が開かれなくても、霊の目が開かれて、救い主であるイエス様にお会いできたということなのです。主に憐れみを与えられたために、この男は、ユダヤ社会から追放の生活を強いられました。しかし、そこでかえって、肉体のみならず、霊において解き放たれ、真の自由を享受し、福音を宣べ伝えて生きる者に変えられたのです。神の力が臨み、与えられる者から与える者へと大変革が遂げられました。

さて、今日私に与えられた聖書のメッセージです。

ルカ10章41、42節『主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」』・・・イエス様は、マルタとマリアの姉妹を気に入り旅の途中によく訪ねておられました。その時の様子です。世話好きな姉のマルタがイエス様一行をもてなすために、台所仕事を一生懸命にしていました。そしたら、イエス様の足もとに座って、そのお話に熱心に聞き入っていたマリアを見て、このように言いました。「主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。すると、イエス様はお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアはその良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。・・ここで、イエス様がおっしゃった事の意味を考えてみたいと思います。もちろん、イエス様はマルタのおもてなしの仕事を否定しておられるわけではありません。そうではなくて、その心の状態についてお話をしておられます。マルタは確かに一生懸命に自分がいいと思う事をやっています。しかし、奉仕も接待も、自分の気がすむようにという自己中心的なおしつけに、知らず知らずのうちに陥りやすいものです。私たちは自分のしていることが善く見え、他人のしていることにイライラし、心をとりみだした時に、「主の足もとに座って、御言葉に聞き入る」べきです。イエス様の真意は、ご自分のお話を聞いてもらいたいという思いでした。それにマリアは応えていたのでした。

現代社会において、世の支配者(サタン)は、すべての人を罪の奴隷者へと引きずり込むためにやっきになっています。欲が喜ぶ物質主義や快楽主義に次から次に私たちを駆り立て、金、物、欲など罪に支配されて生きるようにうまく誘ってきます。そうすると知らず知らずのうちにそのレールに乗っかって、考える時間を与えずに一生懸命にそれに埋没した生活を送るようになります。社会やマスコミや政府が旗を振ってけん引する方向に何の疑問も持たないで、自分でも調べようとせずに、その情報だけを頑なに信じ魂が抜けた奴隷(先に述べた盲人の物乞い)のように闇の世界に放り出されていくのです。

現代人の多くはマルタのように多くのことに心を配り思い煩い、忙しくて心を取り乱した生活を毎日送っています。本当に無くてはならないもの、人が人らしく生きるために、どうしても必要なものが何であるかを見失っています。シンプルに生きるとは、罪によって捻じ曲げられた生活から神が本来与えられた自由な生活へと立ち戻ることです。自分の真の必要は何かをもう一度立ち止まって考えてみましょう。

私たち人間は神に愛され似せて造られた、唯一無二の素晴らしい存在であり、すべてのものを支配できるように造られました。ですから、植物、動物など自然界にあるありとあらゆる被造物は、神の栄光のためにふさわしい奉仕ができるようにと、人間を助けるように造られています。ですから、あくせくして生活の糧や手段を得ることを第一とせずとも必要は添えて与えられます。霊の目が開かれれば、何と豊かな物や食物が備えられているのかが分かります。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6:33)とある通りです。毎日の生活に疲れ、困り果てたら、イエス様の見つめたもの『愛と福音』に立ち返りましょう。疲れたら、イエス様の足もとに座って盲人の目を優しく触り癒された主の愛を受け取り、思い煩いに心を乱されたらマリアが高価な香油をイエス様の足に塗った( ヨハネ12:3)ように愛をお返しし、立ち返った盲人のように隣人を愛し、福音を知らせるシンプルな目的に生きましょう。

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