互いに栄光を現す!
- 耕司 大平
- 2023年2月4日
- 読了時間: 6分
..2023年2月4日(土) 「互いに栄光を現す!」 LT(Loving Time)大平耕司
イエス様が親しくしておられた姉妹がいました。いつもその近くを通られると立ち寄っておられた家です。その姉妹マルタとマリアにラザロと言うお兄さんがいましたが、彼が病気にかかり、その知らせがイエス様のもとへ届きました。イエス様がその家のあるベタニアの町へと行かれると彼は死んで四日が経っていました。この二人の姉妹はどんなにかイエス様の到着を待っていたことでしょうか。他に望みを持てなくなったときに、イエス様がいてくださったらと、そんな思いをずっと抱いていたに違いありません。そんな中イエス様がようやく姿を現されました。姉のマルタは大急ぎで、迎えに出てきました。しかし妹のマリアは、絶望していたのか、悲しみに力を失っていたのか、最初は迎えに出ようとせず、家の中に座っていました。でも、姉がもう一度呼びに来てようやくイエス様のもとに出てきました。この二人の姉妹の第一声は次の同じ言葉でした。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」。この言葉は二人の姉妹の心中をよく表しています。ラザロが病気の間中、イエス様の来訪をどれほど待った事でしょう。ちょっとした物音にもイエス様が来られたかと思い、誰かが来たら、イエス様ではないかと一瞬胸をなでおろしたのではないでしょうか。そしてついにラザロが死んだ時、なぜ、来てくださらなかったのかと何度も問うたことでしょう。私たちも愛する者が死に瀕する時に、「神さま、助けてください。ここにいて助けてください」と何度祈ることでしょうか。しかし、とうとう死んでしまいます。胸をさすっても、耳元で叫んでみても、もう答えてくれなくなる時、死の厳しさ、恐ろしさ、虚しさを思わずにはおれません。そんな時にイエス様がいてくださらなかった、それが自分たちにとってどんなに耐えがたい絶望であったか、それを今ごろ現れたイエス様に訴えています。「なぜ人は死ななければならないのだろうか。こういう悲しい経験をしなければならないのか」と。
この姉妹たちが仲間と泣いているのをごらんになったあと、「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35 )とあります。イエス様は、私たちのために涙を流してくださるお方です。最悪の死に悲しむ私たちの心に寄り添い一緒に泣いてくださるのです。そして、イエス様はこのあと、「ラザロ、出て来なさい」と言われ、お墓の中からラザロを生き返らせてくださいました。そして、ラザロもマルタもマリアも、地上の生涯を再び送り、とうぜん最後は、それぞれの命を終えて死んでいきました。でも喜ぶべきことは、彼らはラザロを蘇らせて、「私は復活であり、命である」と言われたイエス様の蘇りのいのちの中で生き、かつ死ぬことが赦されたのです。そこに大きな恵みがあります。イエス様は、「私を信じる者は、死んでも生きる」と言われ、イエス様の再臨の時には、すべての信仰者が永遠の命への蘇りを約束されているのです。マルタは、イエス様に対して「私は信じております」という信仰告白をしています。イエス様は私たちに最高の栄光を現して下さいました。
さて、今日私に与えられた聖書のメッセージです。
ヨハネ17章21a、22a節『父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください。・・・あなたがくださった栄光を、私は彼らに与えました。・・』 ・・・イエス様は、十字架にお架かりになる前の晩にこのように祈られて、私たちに最高の栄誉と栄光を与えられました。三位一体の神様の愛の交わりの中に、私たちを招待されたのです。私たちはこのイエス様の憐みの愛に抱かれて、神様の最高の栄光の中に導き入れられました。そして、イエス様と同じように、隣人を愛し、世界を憐れむ特権を与えられたのです。私たちは日々愛する者たちを憐れみ、心からの祝福の祈りを捧げます。愛する夫、妻、子供、親、兄弟姉妹、親戚、友人、仲間、隣人、世界中の人々の幸せと平和、永遠の祝福への導きのために真摯に祈ります。また、その祈りへの招待を受けています。赦されているのです。
それはいとも簡単に手に入ります。それを証明しましょう。では、今すぐ目を閉じてこのように瞑想してください。最初にあなたの一番大切な人を思い浮かべて下さい。その人が最高の笑顔をしている場面を思い出してください。笑っている場面でもいいです。そしてその笑顔の輪を家族や友人、知人、隣人へと広げてください。たくさんの笑顔を思い浮かべるのです。そして世界中の人々の笑顔へと広げてください。その人たち全員へ一言、『あなたを愛していますよ』と声をかけてください。相手もあなたに『愛しています』と返してきます。全員がお互いに『愛しています』と言い合って、互いの祝福を共に祈りあっている姿を瞑想して下さい。あなたも神様に感謝し世界の皆様の笑顔を祈っています。
いかがでしたか?イエス様の私たちへの栄光に感謝しましょう。そして、神様に栄光を現し、感謝の拍手をしましょう。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ9:35)とあります。その後に、イエス様は弟子たちを呼んでそのイエス様の権能をお授けになり町々に送り出されました。そして、その祝福の結果を弟子から報告されたイエス様は、とても喜ばれ、このように祈られました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです。父よ、これは御心に適うことでした」(ルカ10:21)。
これは、現在の私たちにも与えられている祝福です。先ほど瞑想したように、いとも簡単に私たちの周りや世界の人々の祝福の栄光のために、瞑想と祈りの旅路へと送り出されるのです。朝昼晩、食事の前に感謝と共に祈ります。そして、散歩しながら、車の運転をしながら、バスや電車に乗りながら、目の前の人々や目に写る家々に向かって同じように皆様の笑顔と祝福を祈るのです。日々、祈りの旅をするのです。そうしますと、あなたも笑顔になり身体も調子が良くなり、朗らかになり怒りが止み、神の栄光が与えられます。「すべて善を行う者には、・・栄光と誉れと平和が与えられます」(ローマ2:10)とある通りです。イエス様は、ユダヤ人に嫌われていた徴税人のザアカイに対して深い憐みと栄光をお与えになり、彼を悪人から神の子へと引き上げられ、栄光を与えられました。「主よ私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(ルカ19:8)とザアカイの口から祝福の宣言がなされ、イエス様も、「今日、救いがこの家を訪れた」(同9節)と栄光を現されたのです。ラザロとマルタとマリアに与えられた栄光と同様に、私たちにもこのような栄光が与えられています。イエス様は私たちを愛し、栄光を与えられます。そして、私たちもイエス様に栄光を現し日々、祈りの旅路に出て行くのです。そうしたら、すべての祝福の栄光が授けられます。
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