信仰とは!
- 耕司 大平
- 2023年3月4日
- 読了時間: 6分
.2023年3月4日(土) 「信仰とは!」 LT(Loving Time)大平耕司
イエス様は、十字架の死後、甦られ多くの人々の前に姿を現されました。パウロは、「キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうち何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」(Ⅰコリント15:3b~8)と書いています。その中の物語です。弟子の一人のトマスだけが、甦られたイエス様に会えていませんでした。イエス様が死後三日目の日曜日の朝復活され、その夜弟子たちに会われたのですが、その時にトマスは不在でした。それで、トマスは、「私は実際にイエス様を見なければ信じない」と言いました。それから8日後にイエス様は弟子たちの前に現われ、トマスにも同じように慈しみを与えられました。この記事を読むたびに、私たちクリスチャンは、疑い深いトマスというような理解をしますが、聖書のどこにもそのような記事はありません。それよりも、このトマスの人間性にホッとするというのがぴったり当てはまるかもしれません。というのは、私たちも同じように考えるのではないかと思うからです。実際に、イエス様が他の仲間たちに現れて、自分には現れていないのですから、いわば嫉妬心を抱くのは誰でもが感じる人情のような気がします。よく小さな子供が、兄弟に与えられたお菓子を自分にも与えられなかったら駄々をこねるというような事に似ています。イエス様の最後の言葉を、「あなたは私を見たので信じたのか。親しい仲間の証言を信じられなかったのか。あなたに比べると、これから、復活の証言の言葉だけを聴いて信じる者のほうがもっと幸いである、もっとすぐれた信仰の人間であり、それだけ幸いなのだ」と言われたかのようにとりますが、そのような叱責ではなかったのではないでしょうか。そうではなくて、「あなたも私を見ることで信じたね。それはいいことだ。しかしこれから後、私を見ないで信じる人が生まれてくる。そういう人たちは幸いである。あなたも今は甦った私と共にあるように、私を信じ祝福にあずかっている。しかし、この後、信仰に導かれる多くの人々はあなたを通して甦った私を見なくても信じる祝福に生きることができるようになる」と言われたのではないでしょうか。それが証拠に、トマスは他の弟子たちと一緒にその場に8日間も留まっていたし、イエス様が現れた時に、すぐさまイエス様の身体に触れて、釘跡に手を入れたという記事は書かれていないのです。そうではなくて、とっさに「わたしの主、わたしの神よ」と叫んでいます。おそらくイエス様の前にひざまずいて信仰を告白したのだと思います。その瞬間をトマスは待っていたのです。なんとあたたかなイエス様と愛する弟子との交わりでしょうか。
さて、今日私に与えられた聖書のメッセージです。
ヨハネ21章17節『三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン私を愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「私を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。私があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「私の羊を飼いなさい」』・・・この個所の聖書の物語です。・・・食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上に私を愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「私の小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」。ペトロは、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「私の羊を世話しなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた・・・同上」。はっきりと言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「私に従いなさい」と言われた。(ヨハネ21章15節~19節)
この個所は、イエス様が十字架で亡くなられた後に、弟子たちがティベリアス湖畔(ガリラヤ湖)で漁をしていた時に起こった出来事です。トマスやナタナエル、ヨハネや他の弟子たちと一緒に一晩中、一所懸命働いたけども、一匹も獲れませんでした。夜明けに岸辺に男の人が立ち、呼びかけて、「何か食べ物があるか」と言いました。「ありません」と答えると、「舟の右側に網を打ちなさい」とさらに声が返ってきました。その通りに、すぐに網をおろしてみると、魚がいっぱいにかかりました。これは、ペトロが一番最初に救われた場面とまったく一緒でした(ルカ5:1~11)。ヨハネが「主だ」と言った時に、あわてて上着をまとって湖に飛び込んだのはペトロでした。懐かしい最初の場面をその瞬間に思い出していたのでしょう。岸ではイエス様が食事の用意を整えて待っていてくださいました。その食事の後でペトロと交わされた会話です。そして「私に従いなさい」と命令されました。この一連の出来事はすべて最初に起こった出来事と同じです。そこでも従いなさいと召されたのです。イエス様はどうして同じことをされたのでしょうか。・・ペテロが最初の召しに失敗しました。イエス様の十字架のあと、三度「あの人は知らない」と否定し、ペトロはそれでもとの漁師に戻っていました。ペトロは挫折感や敗北感がありました。ですから、イエス様はもう一度出発点からの復帰をペトロに促されたのです。とても配慮に満ちた愛の想いがそこにあります。スポーツの世界でも「敗者復活戦」があったりしますが、一度挫折してしまった心を奮い立たせる為にはとてもいい仕組みです。同じように、私たちも「救われる」ということは、やり直しがきかなくなった人生を、もう一度神様にやり直させて頂くことと同じなのです。しかも、そのやり直しは、最初の人生よりも遥かに勝った素晴らしい人生の復活です。さて、イエス様はペトロに「私を愛しているか」と三度お聞きになりました。それでペトロは「はい、愛しています」とは答えませんでした。「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたのです。これは、とても謙虚な言い方です。「あなたが私を愛し、愛を与えてくださっているので、その愛をあなたはご存知です」という信頼に満ちた意味です。以前のペトロのように自分の力に頼っていません。イエス様の愛にゆだねきっています。信仰とはイエス様を愛し、いつもイエス様の愛を感じ取る生き方です。それが人生の全てでいいのです
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