名君のもとに賢臣あり!
- 耕司 大平
- 2022年5月21日
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2022年5月21日(土) 「名君のもとに賢臣あり!」 LT(Loving Time)大平耕司
これらの者どもは、どちらにも変わる者だから、善き指導者が使えば善き者となるところを、悪い指導者が使ったから悪い人間になったにすぎない。
松代藩真田家は、戦国の名将・真田昌幸の長男である信之を初代藩主として、初め信州上田を領土していましたが、元和8(1622)年に四万石を増加されてとなりの松代の地に転封(てんぽう)となりました。この地は、善光寺や川中島といった肥沃な平野に恵まれていましたが、千曲川と犀川の合流地点にあり、しばしば水害に襲われたため経済的にはあまり恵まれませんでした。とくに寛保2(1742)年の水害では、領地石高の三分の一が回復不能という大災害を被りました。このため財政は一挙に困窮し、藩士の知行・俸禄を半減する「半知借上」(はんちかりあげ:給料カット)の策がとられ、領民の年貢が微増されましたが、一向に財政は好転しませんでした。それどころか、当時としては全国でも珍しい足軽のストライキ(出勤拒否)や、百姓一揆が頻発し、財政は混乱の極みとなりました。そのさなか藩主信安が宝暦2(1752)年に死去し、13歳の幸弘が家督を相続しました。それから、藩政改革に乗り出すわけですが、責任者として抜擢されたのが、40歳の恩田木工(おんだもく)でした。古語に「一代の君あれば、一代の臣あり」という言葉があります。名君あるところには賢臣がいるとの意味ですが、まずはこの若き藩主幸弘がなかなの名君でした。ある時、藩主の側近の一人が、「殿はまだ年若いので、そのお慰みに鳥を飼ったらどうでしょう」と進言しました。重役たちも「それもよかろう」と賛同したので立派な鳥籠ができました。そこで若殿は「そんなに立派ならば、ためしにお前がそこに入って食事でもしてみたらどうか」と言われ、提案者が中に入り食事を摂りました。「どうだ、住み心地は」「結構なものでございます。これなら鳥も喜ぶでしょう」と言って提案者が出てこようとすると、「出てはならぬ。おまえは自分が気に入った鳥籠を作ったのだ。ならば、鳥の身になって一生そこで暮らせ」と言いつけ、こう付け加えました。「もし、私がおまえの進言を受入れて鳥飼を好んだとする。となれば、家来、百姓たちも私の真似をする者が出てくるだろう。だが、鳥の身になればそれは迷惑千万。ましてや鳥飼をする専門の者も必要になり経費もかかる。自分一人の歓びのために他に迷惑をかけるのは、上に立つ者として取ってはならぬ始末である」。これだけでも名君と呼ぶに値しますが、幸弘の偉さは、さらにこの上、「されども、おまえは私のために善かれと思って進言してくれたのだから、その忠義に対して褒美をとらせる」として金十両をあげました。この名君の考えはこうです。『もし、このことで側近が面目をつぶしたらこの男は一生、恥を忍んでいきることになる。となると活き活きと仕事もしなくなるだろう。ならば、その行為を罰して、側近としての忠義は褒めるべきだ』。つまり、部下の言動の是非を明らかにした上で、その心情を優しくかばってあげる心がなければ、人を活かすことはできないということを知っていたのです。さて、その賢臣である、恩田木工の改革ですが、総責任者に選ばれた時、彼は殿の面前でまず、「たとえ殿、老臣であろうとも、木工の命令に従う事」を約束させ誓詞を取り付けました。命令系統がほかにあっては困るからです。そして木工自身も、「今後、断じて私利私欲の心を出さず、公器を乱すような行為をいたしませぬ」との血判書を差し出し、覚悟を示しました。ついで、ご家中の者を一堂に集め、同じことを申し付け、これまでの「半知借上」をやめて元の給料に戻し不満の原因をなくしました。その代わり与えられた仕事を忠実にこなすことを約束させ誓詞を取りました。そして家に帰ると、妻子・家来・親族の者を集め、①今後、いっさい嘘をつかないこと。②飯と汁より他は食べないこと。③衣服は古いものを着て新調する時は木綿に限ること。以上の三つのものを自ら誓い、もし身内から裏切り者が出ると殿に示しがつかないので、「これを守れなければ、離縁してくれ」と頼みました。そして、身内も守らせたのです。
ある時に、若い会計係の武士が公金を横領したかどで、木工のところへ父ともども連れてこられました。これまでの処分ならば、若い武士は即刻切腹、お家は断絶というところを、木工は盗んだ時の状況を聞き、この武士を自分の元に「お預かり」とし、父に対しても自宅謹慎との微刑ですましました。そして、きちんと管理していなかった上司に責任があるとして、上役である二人を免職にしました。それは、『人間というものは、善き指導者が使えば善くなり、悪い指導者が使えば悪くなる』という木工の考えからきています。その後、若侍は木工に恩を深く感じて、立派な武士になりました。
木工は正直の徳をたたえ、温情ある政策を敷きました。そこで求めたものは有徳の士を育てることであり、人間関係の『信頼回復』でした。それゆえに、人間の弱さが生み出す怠慢とか、システムとしての欠陥を正すほうに力を注ぎ、マニュアルとしての法律をそれほど重要視しませんでした。やがて宝暦12(1762)年、木工は46歳の若さで病死しますが、この改革は部下に引き継がれて成功しました。・・『日暮硯』(ひぐらしすずり)より
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今日私に与えられた聖書のメッセージです。
ヨハネ8章11節『女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」』・・・この個所は、イエス様の憐れみに満ちたみ旨が示された場面でした。姦淫の現場で捕らえられた女が、イエス様の前に連れて来られます。それには、悪意を持ったユダヤ人指導者たちがイエス様を罪に陥れる魂胆が裏にありました。「先生、こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。あなたはどうお考えになりますか?」と質問されました。イエス様が、「その通り殺せ」と言えば、その当時は、ローマにユダヤ社会は支配されていたので、人を殺す権限は彼らにはありません。だから、彼らはローマ当局に訴える算段でした。そして、愛のない罪人だとレッテルをはることができるのです。あるいは、「殺すな」と言えば、ユダヤ人の律法を破ることを教え、人々が姦淫を犯すように助長する者であると吹聴できるのです。・・さて、イエス様は、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの石を投げなさい。」と言われ、地面にその男どもの罪を次々と書き始められました。それを見た男たちは、あわてて、それぞれその場を立ち去ったのでした。そして、最後にイエス様は、「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか?」と女に聞かれました。そして、冒頭の聖句につながります。イエス様は、この女に、第二の人生を生きる機会を与えられました。「確かに私は、あなたがひどい失敗をしたのは認める。だが、人生はまだ終わっていない。私はあなたの機会を残そう。それはあなた自身が償う機会であり、新しい人生を出直す時でもある」と言われたのです。「あなたを罪に定めない」と言えるのは、イエス様のみです。なぜなら、イエス様はその女も含め、私たちの罪の償いのために十字架に架かってくださった、唯一のお方だからです。イエス様の関心は常に、人が過去にどうであったかということだけではなく、人が未来にどうなるかということに強烈に注がれます。それは、イエス様によってこれからの人生の妨げになる罪を取り除かれることに由来します。私たちは、希望と恵みに燃えて活き活きと再スタートできる力が与えられるのです。イエス様に触れた私たちはこの女の最上の歓びとなった、同じ福音を持ち、自らも心から歓んでいるのです。私たちの心に福音の歓びが充満する時に、それが周りに伝わっていきます。イエス様の歓びは、私たちの歓びです。また、イエス様によって罪を解放された人たちの歓びも私たちの歓びです。イエス様の弟子のひとりのパウロも同じ仲間ですが、このように言いました。『罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです』と。律法は人を罪に定め、殺しますが、福音は、人を罪から解放し、永遠へと生かします。私たちは、イエス様のみに目を注ぎ、イエス様を目的とし、イエス様に導かれる民です。誰でも、現在の境遇からたった今、解放され福音に生かされるのです。
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