心の底から湧き上がる悦び!
- 耕司 大平
- 2022年9月17日
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2022年9月17日(土) 「心の底から湧き上がる悦び!」LT(Loving Time)大平耕司
昔の人は医は仁術とか大医は国を治めるとかいいことを言う。医の真の目的は大衆に健康を保たせ国を豊かに発展させることにある。ところが医者という地位について勉強せず、自分の生計を目当てに病気を治すことで満足する者がいる。今から医学に入る者は大いに奮発勉励し、この悪弊を捨て医道の真意を理解しなければいけない。(医道論より)
これは、当時東大医学部の学生だった北里柴三郎が書いた『医学論』の中の一節です。予防医学の大事さを力説し、医者を志す者の立派な心構えが書いてあります。
彼は、1853年に熊本県阿蘇郡小国町北里で代々庄屋を務める家に生まれました。1871年(明治4年)、18歳で現在の熊本大学医学部にて、オランダ人軍医マンスフェルトに師事し医学への道を志しました。1874年、現在の東京大学医学部に入学し、在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信し、予防医学を生涯の仕事にすることを決意し、卒業後、内務省衛生局に入局しました。1886年からの6年間、国費でドイツに留学し、病原微生物学研究の第一人者、ローベルト・コッホに師事し研究に励みました。留学中の1889年に破傷風菌の純粋培養に成功し、さらにその毒素に対する免疫抗体を発見し、それを応用して血清療法を確立しました。この業績により、一躍世界的な名声を博しました。・・さて、このころの明治時代の医学界の懸案事項に『脚気』(かっけ)の問題がありました。現在ではビタミン不足であることは知られていますが、当時は世界においてもさまざまな説が乱立していました。東大医学部で長く内科を担当していたドイツ人教師ベルツ(御用学者)が、脚気を伝染病としていたため東大出身者は“脚気細菌説”を支持していましたが、ドイツでコッホのもとで細菌学を研究していた北里柴三郎は、その主張の不備を指摘し「脚気菌はありえない」と否定し東大派と対立しました。細菌などによる感染症の特定には、コッホの4原則というものがあり、それに一つも該当しなかったからです。当時、日清戦争、そして、日露戦争と明治維新後相次いで諸外国からの軋轢に日本も軍隊を増強させ勝利に導いていました。軍隊に何十万人もの兵士がいたのですが、脚気の病に悩まされていました。特に陸軍に脚気の発病と死亡者が多かったのです。当時陸軍の軍医のトップにいたのが、東大医学部出身の森鴎外でした。以外にも彼は、学閥にどっぷりはまった人物でした。海軍は麦飯に変えてほとんど脚気の病気を克服していたのにもかかわらず、陸軍は、この親方日の丸の東大学閥主義の森鴎外ら幹部が、“脚気菌細菌説”を頑なに支持し、白米食(ビタミンB1不足)を変えませんでした。結果、日露戦争戦死者が約4,7万人のうち、脚気死亡者が約2,8万人と6割に達してしまいました。学閥の見栄主義が多くの尊い命を奪ったことになります。一方北里柴三郎も東大出身ではありましたが、学閥主義に真っ向から逆らい、徹底的に医者の使命に立っていた人物でした。
さて、北里柴三郎は、世界的な発見と共に医学界に大きな祝福をもたらした功労者にもかかわらず、帰国後あまりいい待遇をもって迎えられませんでした。それも、外国の各国から最高の条件でヘッドハンティングを受けたにもかかわらず、すべてを断り日本に帰国したのにこのありさまです。信じられない事です。それには、上記の森鴎外ら東大学閥の卑劣な反対工作があったからでした。どこの研究所も東大学閥からの圧力が怖くて彼を受入れてくれませんでした。この状況を目撃していたのが福沢諭吉でした。彼は全面協力と多大な資金援助を行い「私立伝染病研究所」を設立しました。この活動に同調して同じく大きなバックアップをしたのが、以前紹介しましたノリタケやTOTOの創設者、森村市左衛門でした。その後、北里柴三郎は、ペストが流行った香港に原因究明に派遣されます。この原因不明の伝染病は、中世ヨーロッパで人口の3分の1が命を落とすほど恐ろしい病でした。そして、ペスト菌を世界で初めて発見し有効な予防法や消毒法を実施しました。それもたったの2年で成し遂げたのです。その後日本にもペストが流行りましたが、その対策のおかげで大事に至りませんでした。そのような活躍の末、1899年(明治32年)やっと彼の研究所が国の資金援助を受け、内務省管轄の「国立感染病研究所」になり、伝染病予防と細菌学に打ち込めるようになります。しかし、まだくすぶっていた東大派閥の軋轢から逃れるべく、仕事を辞め、私財を投じて「私立北里研究所」を設立しました。現在の北里大学の前身です。そこで新たに、狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組みました。その後、福沢諭吉の慶應義塾大学医学部の初代学長に自ら進んで就任し、終生無給で発展に尽力しました。1917年(大正6年)には、「日本医師会」が設立され、その初代会長として組織の運営にあたりました。78歳で生涯を閉じました。
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今日私に与えられた聖書のメッセージです。
ヨハネ15章13節『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』・・・イエス様は、この聖句の前に「私はあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」(同12節)と言われました。イエス様は、私たちに生きる喜び、生涯の歓び、人の使命を教えられました。それを為すと、心の底から永遠に消えない悦びが湧き上がってきます。このよろこびとは何でしょうか。それは『愛』です。愛とは、人の事を思うことであり、人のために生きることであり、人のために自分の命のすべてを使い果たすということです。イエス様は愛の人でした。ですから、その教えのとおり、御自分のすべてを私たちのために使い果たしてくださいました。
ある青年のつぶやきです。「こうして世の中には沢山の人で溢れかえっていますが、100年もすれば今生きている人たちは、全員次世代の人に入れ替わっている事実にふとした時に切なくなります。僕でいうとあと50年くらいでしょうか。どうせ必ず最後はいなくなってしまうのであれば、電車で席を譲るだとか、ゴミ拾うくらいの事は日々していたいですね」。この世で最も美しいことは、「相手のために命を使い果たすこと」。イエス様は、「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ25:40)と言われ、愛することの尊さを示されました。ある女性が、突然起きたショックなことで、精神的な病に陥り日々苦しんでいました。日々寝込んで、家事一切もできないほどでした。ところが、高齢のお母さまが具合が悪くなり、お世話をしなければならなくなりました。そしたら、起き上がり元気になられたそうです。また、ある娘さんが都会で仕事に疲れ、幻覚を見るようになり家に帰ってきて日々寝込んでしまいました。そこで、お母様が一計を講じて、真夏なのに「今朝は雪が降ったよね、寒かったわ」とか、とっくに死んだおばあちゃんの事なのに、「さっきおばあちゃんがちょっと具合が悪くなってね~」なんてとんでもないお話をしました。そしたら、娘さんは、愛するお母様の事を案じて、正気に戻られたそうです。イエス様は、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタイ16:26)と言われ、『自分の命=隣人を愛すること』を示唆されました。マザー・テレサが言いました。「傷つくまで愛しましょう。それは、どれほど多く与えるかではなく、どれほど多くの愛を注いで与えたかによるのです」。イエス様は、愛のたとえをお話されました。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」(マタイ13:44)。宝とは、『イエス様にある愛』です。どのような愛でしょうか。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)という愛です。私たちの命は、祈られて今があります。2千年前にイエス様が「彼ら(弟子)のために、私は自分自身をささげます。・・また、彼らのためだけではなく、彼らの言葉によって私を信じる人々のためにも、お願いします」(ヨハネ17:19,20)と現在の私たちのために天の父に祈られました。私たちは先祖の誰かが祈ってくれたから今があります。この祈りは地に落ちません。必ず成就します。それも永遠に!
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