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  • 執筆者の写真耕司 大平

性格の歪みを直す!

2024年1月27日(土)  「性格の歪みを直す!」  LT(Loving Time)大平耕司

今日私たちに与えられた聖書のメッセージです。

マタイ5章6節『義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる』・・・ これは、神の御心に生きるというステップです。イエス様の山上の説教(マタイ5~7章)の冒頭の神の国に入るための8つのステップの5つ目です。「義に飢え渇く」とは、神の義(ただ)しさに飢え渇くということです。もっというならば、人を純粋に愛することができるようになる、ということです。パウロが言っているように、「私は、自分が全くわかりません。ほんとうは正しいことをしたいのに、それができないのです。反対に、したいくないこと、憎んでいることをしていまいます」(ローマ7:15TLB)とあり、私たちにはどうしようもない罪により、隣人を心から愛することができないでいます。では、どうしたらいいでしょう。聖書には、「世の中の風潮に順応して、何も考えずにそこにのめり込んではなりません。むしろ、神に心を向けなさい。神はあなたを内側から造り変えてくださるでしょう。…常にあなたを未熟なままにとどめようとするこの世の文化とは違って、神はあなたから最高のものを引き出し、十分に整えて、それを成熟させてくださるのです」(ローマ12:2Msg)とあります。神様によって自分自身を変えていただくのです。

さて、性格上の歪みとは、どこから来ているのでしょうか?私たち人間は単純ではありません。性格上の歪みも生物学的(遺伝)、社会学的(環境)、神学的(選択)という三つの視点から考えなければなりません。まず、第一の遺伝の問題で言うと、両親から私たちは2万3千もの染色体を受け継いでいます。ですから、親のさまざまな弱さも受け継いでいます。それは、肉体的な障害であったり、感情的な障害であったりします。その次に、環境の問題もあります。私たちはそれぞれ、ある方法に従って育てられ、人間関係の持ち方や行動パターン、生活習慣というものを学び、身に着けています。両親やまわりの人たちから学びながら成長していきます。性格上の歪みの多くは、ただ単に満たされない必要を満たそうとする自滅的な試みとも言えます。人はだれでも、尊敬されたいという当たり前の願いを持っています。しかし、幼い頃に大切にされたことがなければ、関心を引くためにあらゆる手を尽くすようになるでしょう。また私たちはみな、愛されたいという当然の願いを持っています。しかし、愛された経験がなければ、感情的な親密さを得るために容易に異性に性的な関係を許してしまうかもしれません。さらに私たちは、安心感を得たいという切実な願いを持っています。もし、それが得られなければ、物質主義に陥り、あらゆるものを手に入れることで、その安心感を得ようとします。そして三つめは、選択の問題です。一つの選択を長いこと続けていると、それが習慣となってしまいます。そして、そこにはまり込んでしまうようになります。自分でも考えていなかったような方向にどんどん進んでいってしまうのは、自ら選択した結果、習慣化してしまったからです。

 さて、これらの原因で私たちの性格上の歪みが出来ているのですが、直すのは容易ではありません。なぜ、性格上の歪みを直すのが難しいのでしょうか?まず、その第一要因は、あまりにも長い間、その歪みを抱えて生きてきたからだと言えます。ですから、一晩で解決というわけにはいきません。たいていの悪習慣や行動パターンは10歳くらいまでに形成されてきたものです。ですから、たとえその習慣がよくなかったとしても、自己破壊的だったとしても、履きなれた靴と同じで、「私ってそういう人だから」と簡単に片づけようとしてしまうのです。車の運転と同じで、繰り返していると、自動的本能的無意識に反応する習慣になっているので、それを手放すのが非常に難しくなっているのです。そして、その歪みの性格を自分の本質と混同してしまうようになります。私たちは、よく「私は、~~な人だから」と言います。たとえば、「仕事中毒、太りすぎ、心配性、臆病、短気」という言葉を当てはめるといいでしょう。それは、根拠がないのに、自分で自分に自己暗示をかけているようなものです。「私は、家を出るときは、いつもガスや電気や水道や窓の閉め忘れがないか、心配になってしまう」という人がいるとしましょう。それは、なかなか直すことができません。その理由の一つは、「無意識の恐れ」です。「この歪みはずっと私の一部だったから、もしこれが無くなったら、私が私ではなくなってしまう」といって恐れるわけです。もう一つの歪みの原因は、見返りということです。歪みは、心の痛みを覆い、失敗に対する言い訳となり、罪責感を埋め尽くしてくれます。人の関心を引いたり、人をコントロールすることができることもあります。また、もう一つの歪みの要因は、悪魔に落胆させられたりするからです。たとえ、「私も性格を変えたい、人を憎むのはやめたい、昔のことで傷つき続けるのはおしまいにしたい」と決心しても、悪魔がそばからささやきます。「決してうまくいかないよ。お前は絶対に変われないんだ」と。しかし聖書は、悪魔は嘘つきであるといい、「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)と述べています。

 さて、ではどうすれば自分が変われるのでしょうか?ここに七つのポイントがあります。一つ目は、一度に一つの問題(歪み)に取組んでください。変えたい性格はたくさんあっても、神に祈り、導かれたものから取り組んでみましょう。二つ目は、一日ごとに勝利していきましょう。聖書には、「私たちに必要な糧を今日与えてください」(マタイ6:11)とあります。神は一日ごとに私たちを取り扱ってくださるのです。たとえは怒りを静めたいのであれば、「神様、まず一日怒らないように導いてください」と祈り、寝る前には、「神は、今日も助けてくださって感謝します」とどんなに小さな事でも感謝し、問題に一つずつ取り組み、日ごとに勝利を受け取りましょう。そして、三つ目は、自分の力ではなく、神の力に焦点を合わしていきましょう。聖書には、「私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です」(フィリピ4:13 )とあります。四つ目は、望んでいないことではなく、望んでいることに焦点を合わせましょう。よく私たちは人を見送るとき、「交通事故に気をつけてください」と声を掛けます。しかし実際は、そんなことは守れません。かえって「交通事故」を意識してしまうのです。そうではなくて、「安全運転で帰ってください」と声をかけるのです。聖書には7千以上もの約束が記されています。自分を変え、焦点を正していくための最も効果的な訓練は、聖書の御言葉を暗記することです。1週間に1つずつ暗記すれば、1年で52の御言葉を暗記できます。自分の心を神の言葉で満たすのです。そうすると健全な思考が強化されていきます。そして、五つ目は、感情ではなく行動に焦点を合わせましょう。聖書には、「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」(ガラテヤ5:16 )とあります。まず、正しいことを行えば、感情は後からついてくるようになります。例えば、妻を愛しているように感じられなかったら、愛しているように行動してみることです。そして、六つ目は、悪い友達ではなく、良い友達に焦点を合わせます。聖書に、「友達が悪ければ、よい習慣が損なわれます」(Ⅰコリント15:33)とあります。また、自分を誘惑にさそうお店や場所にも近づかないようにしましょう。そして、最後の七つ目は、完成にではなく成長に焦点を合わせることです。私たちはインスタントに慣れていて、すぐに結果を欲しがります。しかし、大事なのは成長のプロセスです。「神様、私はあなたが私の人生において変えたいと願っておられるすべてのことを受け入れ、自発的にあなたの御心に従います。そして、自分の生活上の歪みを直していただくために、へりくだってあなたに求めます」という態度が必要です。その心の準備が整ったときにはじめて、神はあなたのうちにその働きを始められるのです。

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