愚かであるがゆえの偉大さ!
- 耕司 大平
- 2022年2月12日
- 読了時間: 6分
2022年2月12日(土) 「愚かであるがゆえの偉大さ!」LT(Loving Time)大平耕司
ある男性がその石井牧師のところにカウンセリングを受けにきました。その人はちょっと有名なスポーツ選手だったそうです。でも、不倫を当たり前にやっていました。それで、その中の一人の女性と真剣になってしまって、奥さんと離婚という騒動になりました。しかし、そうなって初めて自分がヤバイことをしてしまっているということに気づいたそうです。やはり奥さんとは離婚したくないと、友人の紹介で、牧師のところに藁をもすがる思いでカウンセリングを受けにやってきました。実に身勝手な男性ですが、これが、罪の世の中の現実です。
さて、牧師がいろいろとその男性の事情を聞いていましたが、聞けば聞くほど、酷いことをしていたそうです。有名なスポーツ選手で、マスコミなど人前では素晴らしいアスリートとして知られていただけに、牧師は事情を聞きながらがっかりしました。
その男性が、
「どうやったら変われるんですか?」
と尋ねました。その質問を聞いて、牧師は、この人は自分自身の事を反省して、真剣に聞いてきているなと感じたので、本音でこのように話したそうです。
「あなたみたいな、申し訳ないけど下の人はね、小手先のカウンセリングやっても無駄だから、もう原点言ってもいいですか?」
と切り出し、
「あなたはね、神の作品なんですよ、神の目的のために造られたんです。神の目的を実現するために、あなたはデザインされて生きているんですよ。だからこれからは、神が喜ぶことをしなさい。神の目的のために生きなさい!」
と言いました。そしたら急に顔色が変わってしまって、それを見ていた石井牧師は、
「ちょっとヤバイ、これからどうなるのかな、発狂してしまうのでは?自分よりガタイもしっかりしているし、こりゃまずいことになってしまったな?」
と思ったそうです。そうしたら、
「そんなことは誰にも聞いたことはなかった!知らなかった!」
と男性は絶叫しました。それで、牧師が
「本当なんですか?」
と言ったら、男性は
「俺は、先祖は猿だと思ってた!」
と答えました。牧師は、
「それで、あなたは猿のような行動をしたんですよ!」
と言いました。そして、
「あなたは、神に愛されて造られた、唯一無二の神の作品なんですよ!」
と神様の愛の対象として人間が造られたことを色々と話しました。
そうしたら、その男性は本当に変わったそうです。
***********石井希尚・吉野敏明著「ドクターと牧師の対話」(万代宝書房)より************
さて、今日私に与えられた聖書のメッセージです。
Ⅱコリント12章9節『ところが主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』・・・イエス様の弟子の一人であるパウロは、この個所で、自分に与えられたイエス様からの幻と啓示について述べています。
「その人は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を聞いたのです」(同4節)。パウロは、自分自身が神様のいらっしゃる天国に引き上げられる経験をしました。それは、「人が口では言い表し得ない言葉」を伴ったものだったというのです。すなわち、人間の恍惚状態を示し、言葉で言い表せないような素晴らしい天国の情景と神様の愛に満たされた雰囲気と、パウロへの励ましの言葉かけを聞いたというのです。私たちの想像をはるかに超えた、至高の国への招待を受けたのでした。それは、パウロが福音の神様の働きのために受けている患難や苦難への回答でした。つまり、「今までとこれからの苦労は、すべてあなたが最後に与えられる祝福の為にあるんだよ」という神様からの励ましのメッセージだったのです。そして、パウロはこのように続けます。「あまりに多くの啓示を受けたため、それで思い上がることのないようにと、私の体に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を打つために、サタンから送られた使いです」(同7節)。それは、パウロ自身が有頂天になって、周りへの自慢と己の高ぶりをけん制するためだったというのです。ここで、体に一つのとげが与えられたとあります。これは、何のことかというと、身体的な苦痛と言う意味で、激しい頭痛だとか、マラリア熱だとか言われていますが、はっきりしません。エレン・ホワイトは、「パウロの視力が弱かった」と述べています。そして、この肉体的な弱さを取り除いて下さるように、「私は三度主に願いました」(同8b)とあります。そしたら、冒頭の聖句にあるように、イエス様が「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。つまり、人間の傲慢さや横柄な態度、自分の力に頼り切ってしまうところには、神であるイエス様の力を働かせることができないという意味です。自己中心である罪の根源は、神様をしりぞけ、己が神となりすべて周りを支配してしまいたいという誘惑です。サタンはその誘惑を助長させます。アダムとエバもその誘惑に負けて、この世を明け渡してしまいました。
私たちは、罪にあって「弱さ」を持っています。それは、罪の結果現れた、肉体的な病気や精神的な病気のこと、また、罪ゆえの誘惑などで陥ってしまう悪い言動などです。十戒には、神を離れ、親への感謝の念を忘れ、殺人、不倫、盗み、偽証、嫉妬などの罪が示されています。その「弱さ」の部分をサタンによって送られているとパウロは述べています。その罪があるゆえに、私たちはこの世のサタンの極悪な仕打ちと、私たちの中の救いようのない罪意識を知ることが出来ました。イエス様はその罪のゆえに、私たちの前に現れ、罪の身代わりになってくださったのです。私たちが自分の罪の「弱さ」を認め、悔い改め、神様に信頼し、祈りだしたときに、イエス様は、愛の祝福である神の力を私たちの上に働かせてくださいます。パウロは、また別の個所で「私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られた」(エフェソ2:10)と述べています。イエス様を仰ぎ、己の罪を悔い改めつつ歩む日々の上に、イエス様の力が注がれます。エレン・ホワイトの言葉です。「人間は絶えず自己を高め、誇る危険の中にいる。そのようにして彼らは自分の弱さを表す。・・回心後に罪人の生活に表れる大変化は、どのような人間的善を通してもたらすことのできないものである。それ故に、人が誇るのは、全く不適切なことなのである」(Manuscript 36,1904年)。
私たちの「弱さ」である愚かさを認め、そのかわりに「神の作品」として造られたという偉大さを自分の土台に組みなおすときに、人生が変わります。神様を讃美しましょう!
コメント