愛の受け渡し!
- 耕司 大平
- 2022年11月19日
- 読了時間: 7分
2022年11月19日(土) 「愛の受け渡し!」 LT(Loving Time)大平耕司
イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」ところが、女は答えて行った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた(マルコ7:24 ~30)。・・イエス様は、ユダヤ地方を離れて異邦人の地に行かれました。猛烈に反対するユダヤ人たちに疲れてのことでした。このシリア・フェニキアという国は、イエス様が生まれたガリラヤ地方よりはるか北にあります。そこで何の活動もされず、ある家でひっそりと過ごしておられました。しかし、この遠い地にもイエス様の評判は届いていました。そこで、汚れた霊に取りつかれたために病んでいた、まだ幼い娘を持つ女やってきました。そして、イエス様の足下にひれ伏して、助けを求めました。そしたら、「あなたのような異邦人ではなくて、まず神に選らばれた民、イスラエルの民、ユダヤ人に十分食べさせなければならない。私は、そのユダヤ人に十分神の恵みを与えるためにやって来たのである。今は、あなたのような異邦人のために考えるひまはない」と言われました。イエス様にしては冷たい言葉ですね。しかし、女は腹を立てませんでした。ただ、こう言いました。「お言葉どおりです。言われた通りに、私は、自分が、あなたの恵みを当然受ける値打ちがある者とは思っておりません。まことの神を信じる信仰に生きてきたわけではないし、ユダヤ人でもない。自分のみじめさを、あなたが顧みるのは当然だと主張する者でもありません。しかし、主よ、お考えください。当然その権利がある子供たちが食卓につくと、その子供が食べながらこぼすこともあるでしょう。その落ちたパン屑はどうなるのでしょう。その下に小犬がいれば、喜んで食べるでしょう。それが落ちてきたら、頂いてよろしいのではないでしょうか?」もっと言うならば、『ユダヤ人を押しのけてでも、あなたの恵みをたっぷり受けたいとは思いません。しかし、あなたの恵みは溢れ出ます。そのあなたの豊かな愛の恩恵にあずかりたいのです』と言ったのです。イエス様はこれをお聞きになり、その信仰を喜んで、「それほど言うなら、よろしい。今既に娘は、癒されている」と言い、娘を瞬時に癒されたのです。女は帰宅して涙を流し娘を抱き上げました。
この出来事は、とても象徴的です。つまり、ユダヤ人の中に神の御子としてお生まれになったイエス様が、まずユダヤ人を救うために全精力をお使いになって伝道されたにもかかわらず、ユダヤ人によって殺されました。そして、ここに出てきた女は、それとは対照的にユダヤ人ではなく異邦人でした。それにもかかわらず、イエス様を信頼し信仰を持ち、熱心にイエス様のもとに行き、娘の悪霊の追出しを乞い願ったのです。そして、イエス様に迎え入れられたのです。イエス様が最初冷たい態度に出られたのは、この女を試すためでした。また、それによってユダヤ人への愛、そしてユダヤ人のみならず、全人類への愛をお示しになられました。イエス様は、女の態度を通して、本来の信仰の姿を世に示されました。この女の主に対する態度、信頼、信仰は、ユダヤ人が忘れていたものでした。律法学者や真面目なファリサイ派の人々よりはこのシリア・フェニキアの女の方がイエス様に近かったのです。女は主をそのまま受け入れました。イエス様が自由に振る舞い、語られるのをそのまま受け入れました。食卓からこぼれ落ちるものを拾うのを確認してくださるだけでよいと思ったのです。主が聴かれるのは当然とは思わず、ただイエス様の前にひれ伏したとき、真実の愛がイエス様から流れ出たのでした。
今日私に与えられた聖書のメッセージです。
ルカ7 章50節『イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。』・・・イエス様と出会った人々のお話が聖書の福音書の中にたくさん記されていますが、なかでも最も多くの人々に愛されている物語のひとつが、この女のお話です。さて、ここでの物語のいきさつですが、ユダヤ人の中でも真面目なファリサイ派の男が、イエス様を家に招待して他の客人と共に食事をしていました。イエス様の奇跡を見聞きして、預言者として尊敬し、その教えを聞きたいという思いからでした。その時、その町の罪深い女が入ってきました。そして高価な香油を入れてある石膏の壺を携えてきて、涙を流し、泣きながら後ろのほうからイエス様の足もとに近寄りました。
当時の食卓につく姿勢は、座らずに横になって寝そべるものでした。左ひじを下に、右手を自由に使えるようにし、足を低めのソファーの外に投げ出すものでした。当時の客をもてなす方法は、普通三つのことが行われました。家の主人は客の方に手をおき、平安を祈願する意味の接吻をしました。そして、冷たい水が客の足を洗うために用意されていました。また少量の香料がたかれ、オリーブ油が一滴、客の頭上に注がれました。
さて、その女ですが、目から溢れ出てくる涙で、イエス様の両足をぬらしました。足の汚れを拭うことができるほどのたくさんの涙が溢れ出たのです。そして、イエス様の足を自分の髪の毛で拭きました。そのあとに足にくちづけをしました。そしてその香油を塗りました。女は他の何も目に入らず、ひたすら主の御身体に目を注ぎ、自分の存在のすべてを注ぎ出すように、一心不乱になってそのもてなしをしたのでした。いったい、この女の行為は、何のためだったのでしょうか。これは、イエス様に対する愛の行為でした。イエス様にそうすることが、彼女自身にとってどんなに大きな慰め、喜び、望みだったのか、その態度で分かります。イエス様は誰よりもそのことをよく知っていてくださいました。また、イエス様にとっても、大きな喜びでした。ここで、イエス様は自分を招いたファリサイ派の男シモンにこのように言われました。「この人を見ないか。私があなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたは私に接吻の挨拶もしなかったが、この人は私が入って来てから、私の足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた」(同46節)。イエス様はシモンに愛が欠けていることを教えられました。なぜなら、シモンは「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」(同39節)と心で思っているからです。そして、それに留まらず、もっと大事な罪の赦しとそれは直結しているのだということをシモンにお示しになられました。続けて一つの物語をお語りになったのです。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」(同41,42節)。シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えました。イエス様は、「そのとおりだ」と言われました。つまり、その女は以前にイエス様とお会いして、罪を赦して頂いていたということが考えられるのです。女は自分が犯している大きな罪の重みから解放されました。罪が生み出す絶望から解き放たれていました。再びイエス様の愛の宣言がこの女になされました。「あなたの罪は赦された」(同48節)。・・・私たちの人生において神が与えてくださる、イエス・キリストの十字架の力による罪の赦しは、一度だけ与えられたらそれでもう不必要になるというようなものではありません。悔い改めつつ、いつでもその愛の赦しの中でのみ私たちの人生は生かされるのです。女に示されたように、両手を広げて私たちの涙に寄り添い、いつでも私の胸に飛び込みなさいと言われる、イエス様の無限の愛を、これからも愛する人に、子々孫々と語り告げたい者でありたいですね。
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