来なさい!
- 耕司 大平
- 2022年7月22日
- 読了時間: 7分
2022年7月16日(土) 「来なさい!」 LT(Loving Time)大平耕司
これは、『学問のすゝめ』の冒頭の言葉ですが、福沢諭吉はこのように言います。「確かに人間は生まれたときは平等であるが、社会を見渡すと、金持ちもいれば貧乏人もいる、賢人もいれば愚人もいる。身分の高い人も低い人もいる。このような不平等は一体どこから生まれてくるのだろうか」。そして現実社会の格差を見せ、こう答えるのです。「ただ学問を勧めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」。つまり、人間社会の「有様」の相違は学問があるかないかにかかっていると、実に明快な倫理で迫っています。(現代に言い換えると「情報」を取り入れる学びの事)
この福沢諭吉は、1834年に九州中津藩(大分県)藩士福沢百助の子として大阪堂島の蔵屋敷に生まれました。生後一年半で父親が病死したため、大分に帰郷し、そこで幼少期を過ごします。成長するにつれて封建的な門閥制度(幕末期)に疑問を抱くようになり、蘭学を学ぶため19歳で長崎に留学し、ついで大阪の緒方洪庵(こうあん)の適塾(阪大の前身)に入ります。1858年、藩命により江戸築地の中津藩邸内に蘭学塾を開きました(慶應義塾の前身)。しかし、その翌何横浜に出かけた際にオランダ語が通じず、英語の必要性を痛感します。独学で英語を学習して英学に転じました。幕末の1860年から明治維新により新政府になった1867年までは幕府に出仕しました。その間、三度にわたり幕府遺外使節に随行して欧米諸国を視察する機会を得ます。その時の体験から『西洋事情』を刊行し、欧米文明の紹介役となりました。維新後は新政府からの出仕要請を断り、慶應義塾での教育、雑誌「明六雑誌」「時事新報」や数々の著作によって国民の啓蒙に尽力しました。とりわけ明治5年(1872年)から9年にかけて出版された『学問のすゝめ』は、初編から17編まで340万部が売れる大ベストセラーとなりました。従来の儒教思想を批判し、個人の独立と日本の文明化の必要性を論じたその内容は、日本の近代国家への脱皮に計り知れない影響を及ぼしました。この『学問のすゝめ』は、あの大変革期の明治の初頭、怒涛のごとく押し寄せる文明開化の嵐の中で、翻弄される封建的日本人の体質を、一日も早く“近代文明人”に生まれ変わらせるために何が必要か、つまり、民主主義の原理原則を説き、国家と国民の義務と責任を問い、それらをいち早く提示してくれました。『学問のすゝめ』が書かれる4,5年前まで、“領民”とい名で封建君主制度の下にいた多くの日本人は、「お上」の指示に従って「何も逆らわない」ことを正義と思わされていました。そうした中にあって福沢諭吉は、これから西欧諸国と対等に生きる国家国民となるためには、まず何よりも国民一人ひとりが「独立の精神」を持つことが急務であり、この精神こそ文明国家の礎である個人主義の基本であることを教えていたのです。
彼の『実学主義』は、学者とか研究者を目ざすというよりも、生きる力を学ぶというものでした。その第一として「読み、書き、ソロバン」を基本としてすすめ、次いで地理学、物理学、歴史学、経済学、倫理学などの概要を教えています。例えば、「経済学とは、家計のあり方から国家財政までを説いた学問であり、倫理学(修身)とは、自分の行為・行動や、交際、生活法などにわたる基本的なモラルを説く学問である」というものでした。当時の日本は、とりあえず国家という形はできたものの、その中身の国民の意識や教育ができていませんでした。外国から攻めてこられたら直ちに植民地にされかれない状態だったのです。一日でも早く欧米列強と対等の文明国にするためには、これまでの「お上意識」(封建的因習)から脱却して、西欧の“市民”つまり自由主義と個人主義に基づいた国民を育てなければならない、との思いだったのです。
現在1万円札の“顔”として、彼は私たち日本人を見つめていますが、まさしく、緊急に迫りくるディープステート(DS:米国の政府・金融・産業界・宗教界等の秘密のネットワーク組織、内部で権力を行使する闇の政府)の日本植民地支配の策略にしっかりと目を覚ますように警告しているようにも思えます。情報社会において二極分化が急速に進むと言われる現在、真の情報を取り入れるために『学問のすゝめ』の警告が鳴り響きます。
*******************************************************************************
今日私に与えられた聖書のメッセージです。
マタイ14章29節『イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。』・・・イエス様は、愛するバプテスマのヨハネが、領主ヘロデにより、残酷にも首をはねられ殺された事実を知っていました。そして、ヘロデはイエスのことを、ヨハネが生き返ったと判断して、イエスをも殺そうとしていました(同2節)。イエス様はそのことをお知りになると、ヘロデの領地から離れて、舟に乗ってガリラヤ北東部のベツサイダの近くに来られました。人里離れたところで、休息を取られるためでもありました。しかし、すでに群衆(女子供をのけて5千人)がイエス様を追って、先に待っていました。イエス様は、彼らを見て「羊飼いのいない羊のようであるのを深く憐れみ」(マルコ6:34)、病人を癒されるなどされました。夕暮れになったので弟子たちが、「群衆を解散させて、村へ食物を買いに行かせましょう」と言うと、イエス様は「あなたがたの手で食物を与えなさい」と言われました。イエス様は、弟子たちの中にどれだけのパンがあるかと尋ねられると、「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」というと、イエス様は、それを持ってくるようにお命じになり、群衆を50~100人ずつの組にして座らせるようにお命じになりました。イエス様は食物を手にとり、「天を仰いでそれを祝福して裂き、弟子たちに渡して群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残りのパンの屑を集めると、十二籠もあった」(ルカ9:16,17)。そのことにより、さらに群衆が、イエス様ご自身を、彼らの王として、ローマ帝国から解放し、かつてのダビデ王国のように強靭なイスラエル王国を再建して下さるものと、ますます、期待が高まったのでした。そのことを察知したイエス様は、すぐさま群衆を帰し、弟子たちも彼らの政治活動に巻き込まれることのないように、強いて舟に乗りこませて、ガリラヤ湖へと放たれました。そして、イエス様は祈るためにひとり山に登られました。しかし、弟子たち一向は、逆風に悩まされて、9時間ほどもこぎ続けました。彼らが疲れ切ってもうだめだと思った、明け方近くのこと、かすかな光の中に、近づいてくる不思議な姿が現れました。彼らは恐ろしさのあまり、「幽霊だ」と叫びまくります。イエス様が弟子たちを心配されて湖の上を歩かれて、彼らの舟に近づいて来られたのです。「安心しなさい。私だ。恐れることはない」(マタイ14:27)と話しかけられます。すると、弟子のペトロは、嬉しさのあまり我を忘れて叫びました。「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(同28節)。イエス様が、「来なさい」と言われたので、ペトロは舟を降りて水の上を歩き、イエス様の方へ進みました。しかし、ペトロは強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫びます。するとイエス様はすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。二人が舟に乗り込むと、風は不思議にも静まりました。
現代は、まさしく、イエス様時代のように、グローバリスト(世界金融資本)の支配が資本主義の根幹に座しています。いわば、ローマ帝国の世界支配の延長線上に彼らが世界に暗躍しているということです。日本も同じように、当時のユダヤ社会において、ローマに支配されていたように、ディープステートに支配され、最終的には離散したユダヤ人のように破壊される寸前まで来ています。その中、誰にも破壊されない永遠の御国に入るべく、イエス様が愛の招きをされています。「来なさい」に素直に従いたいと思います!
Yorumlar