死からいのちへ!
- 耕司 大平
- 2023年3月11日
- 読了時間: 7分
..2023年3月11日(土) 「死からいのちへ!」 LT(Loving Time)大平耕司
聖書はつねに大胆に、真実を語っています。イエス様は、甦られたあと天に帰られるまでの40日の間に弟子たちに数回現れました。そして、かつてイエス様が宣教の初めに弟子たちに山上の説教をされたガリラヤ湖畔の小高い山に導かれたのです。ユダを除く弟子11人は、その時のことを懐かしく思いながら歩いたと思います。イエス様に会い、ひれ伏したまではいいのですが、この場に及んでも「疑う者」がいたのです。驚きですね。ギリシャ語の原文で読むと、「そして彼らは、イエスを見て、イエスを礼拝した。しかし彼らはまだ疑っていた」とも訳せる文章です。そうすると、弟子の全員が疑っていたとなります。しかし、この「疑い」は逆にこのことがやはり真実に起こった出来事であることを裏づけています。人間の弱さをよく表しているからです。また、この「疑い」を表すギリシャ語は聖書の中ではもう一か所しか使われていません。それは、かつてイエス様がガリラヤ湖で嵐の中を歩んで来られた場面です。弟子たちが舟でおびえている最中、ペトロがイエス様に「そちらに行かせてください」と頼み、イエス様が「来なさい」(マタイ14:28,29)と言われたので、湖の上を歩き始めてすぐに怖くなり沈みそうになりました。その時に「主よ、助けてください」と叫び、イエス様が手を伸ばし捕まえ「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(同30、31節)と言われた時の言葉です。この場面の「疑い」という単語は、知識的に何かを知れば疑いが晴れるという意味で使われてはいません。そんなことは、まだ自分が知らないので、疑ったほうがいいというようなことではないのです。そうではなくて、人を信頼しないことです。この人は信頼できないということなのです。甦られたイエス様にお会いしながら、そのイエス様に信頼していなかったのです。嵐の中のペトロもイエス様に信頼している時は、湖上を歩けました。しかし、そこから外れ嵐に心が奪われ恐怖心に満たされ、イエス様への信頼心が欠けて沈みかけたのです。さて、この山上での「疑い」も、考えてみれば当然かもしれません。イエス様の甦りの意味もまだよく分かっていませんでした。いくらイエス様が甦っても、自分たちは死んでしまえばそれで終わりではないのか。死は本当に打ち破れるのか。揺るがない現実のように思える死に対する不安、疑いが彼らの心にありました。ここでさらに大切なことは、そういった疑いを持っていた弟子たちにイエス様が「近寄って来て言われた」ということです。ペトロが湖で沈みそうになったときも、イエス様が近づいて手を指し延ばされました。疑いや迷いの中にイエス様が近寄り、引き上げてくださいます。そして、弟子たちのすぐ側でイエス様は何と言われたでしょうか。「私は天と地の一切の権能を授かっている」。権能は口語訳聖書では権威と訳されていました。権威とは独裁者のイメージです。力づくで、人々を支配し、自分の言うことだけを通そうとする力を想像してしまいます。ときには暴力や武力を行使し人々を支配します。それは、信頼どころか恐怖心を掻き立てます。しかし、イエス様の言葉は、いのちに根ざす権威です。死んだ者から生きた者へと変えるために近寄る権能です。まだ私を信じていないのかと怒って蹴散らすような権能ではないのです。疑わざるを得ない弱い弟子たちに自ら近寄り、その疑いを信頼に変える愛の力です。
さて、今日私に与えられた聖書のメッセージです。
マタイ28章20節『あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』・・・イエス様は、弟子たちの疑いを信頼へと変えられたあとで命令をお与えになりました。どんな内容でしょうか。「だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。もうイエス様のことを疑ってはいません。今度は、弟子たちは早くイエス様の教えを伝えたいと思ったに違いありません。かつて、公生涯の初めに、このガリラヤ湖畔でイエス様は「山上の説教」を語られました。弟子たちは、そのことを強烈に思い出していました。聖書のマタイ5章から7章にかけての忘れがたい数々の教えです。その山上の説教をされた山の上にイエス様は再び立ち、弟子たちにあの教えを思い起こさせながら、さらに多くの人々に教えなさいと言われました。「あなたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」というイエス様の言葉を聴きながら、弟子たちは、主の教えの一字一句を思い起こしていました。イエス様の復活を信じ、そのいのちに生かされる者は、イエス様の弟子となるのです。この弟子の集団が教会です。かつてサマリアでヤコブの井戸で失われた女に出会われたイエス様は、「生きた水」に言及されました。「この水を飲む者はだれでも渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:13 ,14)と言われました。まさしく、この女は生き返り、そのサマリアの町の人たちは、この女の証言のゆえにイエス様と出会い、多くの者がイエス様を信じ生き返りました。あるいは、イエス様はかつて徴税人や罪人を迎えて共に食事をされました。その時に、それを見たファリサイ派や律法学者たちが不平を言いました。そこでイエス様はご自分の使命を話されたのです。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九匹の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ15:4~7)。つまり、イエス様が地上に来られたのは、失われ死んだ者たちを捜し出しもう一度永遠の命を与えるためでした。イエス様と出会い息を吹き返す必要があるのは、イエス様を信じなかった、ユダヤ人の中でも立派な人物と言われ敬われていたファリサイ派の人たち、律法学者の人たち、祭司や議員などリーダーの人たちでした。もちろん、罪人、徴税人、サマリア人、異邦人などユダヤ社会からのけ者にされていた人たちも含みます。そして、現在に生きる私たちです。・・イエス様は続けられます。「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、・・」(マタイ28:19)。父と子と聖霊、この三位一体の神の御名によってバプテスマを受けた者は、甦られたキリストの体である教会に加えられます。
聖書の御言葉に、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」(マタイ11:28~30)とあります。ここでも「私に学びなさい」とあります。つまり、弟子であることを求められます。そこでこそ疲れが取れる「安らぎ」を得られるのです。イエス様はご自身の方から近づいて来られ「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されました。死からいのちの溢れる愛の生涯へと、私たちを導いておられます。
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