毎日が未完成!
- 耕司 大平
- 2023年5月20日
- 読了時間: 7分
2023年5月13日(土) 「毎日が未完成!」 LT(Loving Time)大平耕司
今日私に与えられた聖書のメッセージです。***************************************
マタイ25章40節『そこで、王は答える。「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」』・・・これは、イエス様の「羊とやぎの話」(マタイ25章31~46節)として語られた中の一節です。
『人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」。すると、正しい人たちが王に答える。「主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしているのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」。そこで、王は答える。・・冒頭の聖句・・それから王は、左側にいる人たちにも言う。「呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせず、のどが渇いていたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ」。すると、彼らも答える。「主よ、いつ私たちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」。そこで、王は答える。「はっきり言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである」。こうして、この者どもは永遠の刑罰を受け、正しい者たちは永遠の命にあずかるのである』
これは、イエス様が世の終わりについて語られた箇所です。それはイエス様がもう一度来られることによって歴史が完成するということです。ところで、私たちの人生は、この世に自分が生まれた時に始まり、死ぬことによって終わるのでしょうか。そしたら、「その間に自分の人生が完成されないといけない!」と考えてしまうのが普通ですが、果たしてそうなのでしょうか。自分の生活が本物であったか、幸せであったか、どれだけの黒字になったかなどと精算し安堵するのでしょうか。逆に、本物でなかった、不幸だった、赤字だったと精算し悲しむのでしょうか。それが、死ぬ時までに決定するのでしょうか。イエス様は、その問いに対して、「あなたの一生は、黒字か赤字か、死によって決まってしまうようなものではない。人生の真の値打ちを計りに、もう一度私が来る。私の基準であなたの生活をもう一度検討しよう」と言われています。これは、今までの人類が作った歴史についても同じことが言えます。歴史が何によって終わるのか?すべてのものの破壊によってなのか?それとも、歴史は、神の支配によって完成されるのか?そのことに回答を与えておられます。さて、イエス様はこのお話の前に、「十人のおとめの話」と「タラントンの話」をされました。先週と先々週の説教でお話したとおりですが、その結論がこのお話になっています。イエス様が再び来られます。その時に、私たちの人生の総決算をしてくだいます。赤字か黒字か、幸せか不幸か、本物だったか偽物だったか、私たち自身が自分で決着をつけるのではなく、イエス様が決算を下されます。羊と山羊というたとえで右と左に分けられるとあります。右の羊側の人は、「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちに用意されている国を受け継ぎなさい」と思いがけない言葉をかけられます。神から祝福を受けられる人は、自分が燃やすべき油を正しい時に用意して燃やすことができた人であり、生かすべき自分の才能を生かし、神から預かったタレント
(才能)を生かしきることができた人です。どこで生かすことができたのでしょうか?
「お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」。言われた人たちはびっくりしました。「いつ、私たちが主にお会いしそのようなことをしたというのでしょうか?私たちは、これまでの人生であなたにお会いしたいと願っていました。しかし、そのようなことはないと思いますが・・」と戸惑っていると「はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」とイエス様は答えられました。私の兄弟とは、何もクリスチャンの仲間だけというのではなく、私たちの身近にいる人たちはどんな人でも神の家族であるということができます。なぜならば、アダムとエバ以来、人類は神によって造られたから、すべての人は神の家族となるわけです。身近にいるどんな人でも、飢えている、渇いている、旅をしていて宿がない、病んでいる人たちに、ふさわしいおもてなしをすることをイエス様は教えられます。そして、その行為は、私にしてくれたのだと言われます。エレンホワイトは、「国民が主の前に集められる時、そこには2つの階級しかないのであって、彼らの永遠の運命は、貧しい者や悩める者を通して主のために尽くしたか、それとも尽くすことを怠ったかによって決まるのである」(各時代の希望下107頁)と述べています。さて、そのイエス様の愛に生きることが、ここで叫ばれているのですが、なかなか現実的には難しいものです。頭ではその行為は大事だと分かっていながら、愛に生きることは至難の業です。その理由は、愛することに報いを求めてはいけないからです。私たちの親切な行為は、必ず相手からの報いを求めます。これだけのことをしてあげたから、相手は必ずこういうお返しをして当然だというような、計算づくの愛がそこには見え隠れするのです。私たちは、報いを求めてはいけないと知っていながら、でも、心の奥底ではそうではありません。例えば、子育てでもそうですが、親は一生懸命に愛をそそいで子供を育てます。しかし、子供が大人になり独立してから、年老いた自分たち親を見捨てるような仕打ちをしたとしたら、もちろん腹をたてます。「ああ、自分たちは人生を損した」と思うものです。あるいは、友だちの間でもそうです。「これだけしたのに返してくれなかった。私は彼の友情を信じてきたのに裏切られた」などと縁を切ってしまいます。これは人情的には分かります。仕方がありません。では、どうしたらいいでしょうか?イエス様は、崇高な愛の行為を求めておられるのでしょうか?そうではありません。イエス様は、愛の行為は、どんな小さなことでも私が覚えていて、死を超えた世界でその愛を評価してくださると言っておられるのです。この世での報い、つまり、人生の完成を求めなくていいとおっしゃっています。未完成でいいのです。日本のディズニーランドは、お客さんのリピート率がナンバーワンと言われています。それには三つの「ねばならない」という理念があるからだそうです。その一つに、『毎日が未完成でなければならない』というものがあります。ディズニーランドでは、毎年新しいアトラクションが増えています。完成してしまって変化がないとしたらみんな飽きてしまうからです。同じように、私たちの人生も未完成でいいのです。だからこそ、日々努力し、神の愛に近づくことを喜びとすることができます。また、愛を実践し、その報いは、死を超えた世界でイエス様が覚えて評価してくださる、という事の方がはるかに楽しいからです。さらに、他人に愛の行為をする困難さに比べたら、身内や家族を愛することなんてとても簡単な事になるという理由もあります。いずれにしても、この世の報いだけに凝り固まって人生を過ごすと、すごいストレスになります。ですから、気づく範囲で小さな愛の行為を実践しましょう。まずは、周りからの小さな行為に対して「ありがとう」を言いましょう。そして、困っている人を助けましょう。身近な人の必要をできる範囲で手伝いましょう。愚痴を減らし笑顔を返しましょう。相手の幸せを祈りましょう。「私は、それをいつしましたか?」のレベルでいいのです。
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