潔く目を覚ますために!
- 耕司 大平
- 2023年4月29日
- 読了時間: 7分
2023年4月29日(土) 「潔く目を覚ますために!」 LT(Loving Time)大平耕司
今日私に与えられた聖書のメッセージです。***************************************
マタイ25章12 ,13 節『しかし、主人は、「はっきり言っておく。私はお前たちを知らない」と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。』・・・これはイエス様の「十人のおとめのたとえ」の個所です。
・・・『そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に「花婿だ、迎えに出なさい」と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。「油を分けてください。私たちのともし火は消えそうです。」賢いおとめたちは答えた。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、「御主人様、御主人様、開けてください」と言った。しかし主人は、・・・(冒頭聖句)・・・』(マタイ25章1~13節)
聖書は預言の書です。これから起こりうることが前もって書かれています。世界の人口77億人のうち三分の一の25億人が聖書を信じる所以は、聖書に書かれてある事柄がことごとくこれまでの歴史の中で成就しているからです。そうであれば、これから起こりうることにおいても大きな信頼が持てるというわけです。聖書は、言わば前を照らしてくれる車のヘッドライトのようなものです。お先真っ暗な夜道(人生)を走る時に、重要な役目を果たします。高倉健の映画でも有名になった網走監獄を皆さん聞かれたことがあると思います。日本最北端の極寒刑務所です。そこで囚人にとても恐れられていたのが独居坊です。刑務所の規律を破った時などに入るお仕置きの小屋ですが、ただの隔離された部屋でしたらそんなに恐れられてはないはずです。実は、その部屋はいったん入り、ドアを閉められると光一つない漆黒の闇となるのです。そこに一週間も入るとおかしくなるくらいだったそうです。太陽の光は生きる力を与えてくれます。霊的には、同じように希望の光がとても大切です。冒頭の聖書箇所のマタイ24章から25章にかけて、イエス様は「世の終わり」についての預言を語られています。この終末についての信仰は、終末論という言葉で表されますが、クリスチャンの信仰の基本的特質です。特に、私たちセブンスデー・アドベンチスト教会の名前は、聖書の教えどおり、第七日目の土曜日を安息日として礼拝を守り、イエス様の再臨(終末に起こる出来事)を待望するという意味があります。世間で叫ばれてきた終末論は、この現代生活の終焉が来るという悲しいもので、この世が破壊的な力によって滅ぼされてしまうのを覚悟しなければならないというものです。しかし、聖書が語る「終わり」とは、滅びだけではなく、いのちの甦りと永遠の救いと神の国の建設という、喜びをもって待望すべきものなのです。そのことを語るのが、この「十人のおとめ」のたとえ話です。世の終わりはすべてのものが死滅して終わるのではありません。イエス・キリストが再びこの世に帰ってきてくださり、「神が共にいてくださる、涙も死も悲しみも嘆きも労苦もない」(黙示録21:3,4参照)パラダイスが実現する新しい国の始まりなのです。花婿を迎える娘たちのように、人生で最も華やかな喜びの時にたとえておられます。私たちクリスチャンの生活の原点は、再臨信仰に表される将来にあるということです。弟子たちがイエス様と共にこの世を生きたように、イエス様のみわざと教えを基礎として生き、またそのイエス様が再び帰って来てくださるという希望に導かれるのです。いつそれが起こるか分かりません。ですから、いつでもそれに備える生活が大切であることをイエス様は語られました。世の終わりについての信仰は、毎日の生活に関係します。かつて、小学校の時、担任教師の家庭訪問がありました。「何曜日の午後、先生が来られる」という事が決まれば、自分の部屋の整理や大掃除が始まります。先生が来て、子供の部屋や机の上を見られるかもしれないからです。しかし、それでは先生は日常の生活を見たことにはなりません。大人でも同じです。会社の偉い人が来れば、それに備えて見違えるように掃除をします。天皇の視察となると、町中がお騒ぎして、きれいに整備し、その宿になるホテルは、新しい部屋を建て増しするなどということになったりします。でも、それでは本当の町の姿には、ならないのです。イエス様は、そこで、主はいつ来られるかわからない、いつでも大丈夫なように生活をしなさい。その上、いつでもお迎えができるように準備しておきなさい、と言われました。・・さて、このたとえ話の中では、花婿がなんと真夜中に到着したというのです。さあ大変です。十人のおとめは、ともしびは用意していました。しかし、五人の愚かなおとめは、油の用意がありませんでした。そのためあわてて油を急いで買いに行きましたが、間に合わず、婚宴の席には入れませんでした。賢い五人のおとめは、ちゃんと油の用意をしていて、花婿を迎えることができ、一緒に婚宴の席に入れたというのです。さて、その油とはいったい何でしょうか。ここでは、愚かなおとめたちが、賢いおとめたちに、「油を分けてください」と頼みましたが、「分けられるほどありません」と断られました。これを読んだある人が言いました。「この賢いおとめたちは意地悪だ」と。果たしてそうでしょうか。そんな単純な話ではなさそうです。油というのは、霊的には、聖霊にたとえられます。つまり、火に油を注ぐとあるように、人間にエネルギーを与える存在は聖霊だからです。聖霊がその人に働くということは、イエス・キリストへの信仰心がないとまず始まりません。ましてや、聖霊は人間の奴隷ではありません。私に働いている聖霊よ、この人に働けと命令はできないのです。「聖霊は風のようだ。どこから吹いて、どこに行くのか分からない」(ヨハネ3:6,7参照)とあるとおり聖霊は神様ですから、神様の御意思で働かれます。それもその人の信仰心によるのです。ですから、分け与えることができないのです。信仰心は祈りからまず与えられます。その中心は、イエス様との心からの交わりです。「見ずに信じる者は幸いである」(ヨハネ20:29)と言われたように、イエス様が肉眼では見えないのは、私たちの霊の目が開かれるためです。イエス様と交わるためには、祈りと瞑想しかありません。それには日々の積み重ねしかないのです。その場しのぎの大掃除では足りません。いつイエス様が来られても、一緒に神の国に行ける準備が整っていることが大事です。そのためには常にその意識をしておく必要があるのです。私たちの心には常に二つの種類の祈りがあります。一つ目は、この世での生活に関するもの。二つ目は、神の国への備えに関するものです。どちらも大事です。現実の生活を考えれば、何もかも置いてすぐに神の国に行くことには、躊躇します。「この世に未練が残る」というようなものです。まだ若くて小さな子供や妻がいる、彼らの生活はどうなるのか。あるいは、自分のやりたい事などまだまだ夢の途中である、とか・・。様々なこの世でのやりたいことや責任などがあります。それと同時に私たちはいつ死ぬか分からない存在でもあります。イエス様が来られる再臨の時に運よく遭遇できたら最高ですが、自分が先に死ぬことも大いに可能性があります。死は眠りでイエス様の再臨時に目覚めさせられ、罪のない命と不死の体が与えられます。ですから、いつ死んで神の国に召されてもいいように、霊的に意識し、潔い信仰を同時に持つ必要があります。賢い五人のおとめたちはその覚悟が出来ていました。常にその意識がありました。眠り込んでもそうでした。そのために訓練していました。再臨の時が分からないから祈っていたのです。ですから、イエス様が迎えに来られた時には、潔く目覚めることが出来ました。一つ目の祈りである、この世の雑事や心配事は、神様にすべてお任せして、二つ目の祈りである聖霊の導きに従ったのでした。その時に賢く選べるように備えをしましょう!
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