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目をひらけ!

  • 執筆者の写真: 耕司 大平
    耕司 大平
  • 2022年7月23日
  • 読了時間: 7分

2022年7月23日(土)    「目をひらけ!」    LT(Loving Time)大平耕司

 ジョン万次郎こと中浜万次郎は、文政10年(1827年)1月1日に土佐の中浜、今の高知県土佐清水市中浜で貧しい漁師の次男として生まれました。9歳の時に父親を亡くし、万次郎は幼い頃から稼ぎに出ていました。天保12年(1841年)14歳だった万次郎は仲間と共に漁に出て遭難。数日間漂流した後、太平洋に浮かぶ無人島「鳥島」に漂着します。万次郎達はそこで過酷な無人島生活をおくりました。漂着から143日後、万次郎は仲間と共にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって助けられます。この出会いが万次郎の人生を大きく変えることとなりました。救助されたものの当時の日本は鎖国をしており、外国の船は容易に近づける状態ではありませんでした。それに、帰国できたとしても命の保証はありません。ジョン・ハウランド号の船長ホイットフィールドは、万次郎を除く4人を安全なハワイに降ろしましたが万次郎の事を気に入った船長は、アメリカへ連れて行きたいと思い万次郎に意志を問いました。万次郎もアメリカへ渡りたいという気持ちがありましたので、船長とともにアメリカへ行くことを決断しました。この時、船名にちなんだジョン・マンという愛称をつけられました。そして、万次郎はアメリカへ足を踏み入れたのです。アメリカに渡った万次郎はホイットフィールド船長の養子となり、マサチューセッツ州フェアヘーブンで共に暮らしました。学校で、英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学びました。万次郎は首席になるほど熱心に勉学に励みました。また、教会も家族と共に通い、バプテスマを受けました。卒業後は捕鯨船に乗り、数年の航海を経た後日本に帰国することを決意。そして、ハワイの漂流仲間のもとへ向かいます。帰国準備を整えて、日本に向けて出航するのでした。嘉永4年(1851年)薩摩藩領の琉球(現:沖縄県)に万次郎は上陸します。万次郎達は番所で尋問後に薩摩本土に送られ、薩摩藩や長崎奉行所などで長期に渡っての尋問を受けました。そして嘉永6年(1853年)帰国から約2年後に土佐へ帰ることができたのです。土佐藩では公式な記録として「漂客談奇」が記され、土佐15代目藩主山内容堂の命により蘭学の素養がある絵師・河田小龍(しょうりょう)が聞き取りを行います。このとき河田小龍によってまとめられたのが「漂巽(ひょうそん)紀略全4冊」です。漂流から米国などでの生活を経て帰国するまでをまとめており、絵師ならではの挿絵(さしえ)が多くある本です。土佐藩主山内容堂公にも献上され、多くの大名が写本により目にし、2年後河田小龍を尋ねた坂本龍馬や多くの幕末志士たちも目にしたに違いないと思われます。その後、高知城下の藩校「教授館」の教授に。後藤象二郎、岩崎弥太郎等が直接指導を受けたといわれています。万次郎は幕府に招聘され江戸へ。幕府の家臣となります。その際、故郷である中浜を姓として授かり、中濱万次郎と名乗るようになりました。この異例の出世の背景には、ペリー来航によりアメリカの情報を必要としていた幕府がありました。万次郎は江川英龍(ひでたつ)の元で翻訳や通訳、造船指揮、人材育成にと精力的に働きました。万延元年(1860年)万次郎は、日米修好通商条約の批准書交換のためにアメリカへ行く使節団を乗せたポーハタン号の随行艦「咸臨丸」の通訳、技術指導員として乗り込むこととなりました。この軍艦・咸臨丸には、艦長の勝海舟や福沢諭吉ら歴史的に重要な人物らも乗っていました。そのサンフランシスコで万次郎が薦めた本がウェブスター辞典です。これが「学問のススメ」の基礎になったと言われています。

歴史上の彼らには当然分からないでしょうが今一人一人の繋がりを見てみると、運命というか、神様の意思のようなものを感じます。ジョン万次郎が遭難しなかったら、龍馬の船中八策、福沢諭吉の学問のススメも、三菱の存在もなかったかもしれません。現在の日本もどうなっていたか想像する事すらできないくらい違っていたのではないでしょうか。万次郎を取り巻く人達によって日本は覚醒し、歴史は人間の思考とは全く別の生き物のように大きく動き、近代日本の夜明けを迎える事になりました。万次郎はその後も捕鯨活動、小笠原開拓、開成学校(東大の前身)教授就任などめまぐるしく動き続けます。また、クリスチャンとしても常に優しさを保ち、多くの人々に施しをしつつ、キリスト教伝道に力を注ぎました。そして明治31年(1898年)71歳で万次郎はその生涯を終えました。・・・webサイト「ジョン万次郎資料館」より参照・・・

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今日私に与えられた聖書のメッセージです。

使徒言行録26章18節『それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らが私への信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に相続にあずかるようになるためである。・・・タルソ出身のパウロは、ローマ市民として生まれましたがユダヤ人の家系から出ていて、エルサレムで最も著名なユダヤ人指導者たちから教育を受けていました。興味深いのは、ローマ市民でありながらユダヤ人でもある点です。パウロの回心後、捕らえられた時、ローマ帝国の隊長に向かって、自分はローマの市民権を持つ者だと話し、裁判などの正式な手続きを取らずに拘束し、むち打ちなど拷問にかけることの行為を止めさせました(使徒22:25)。つまり、パウロの立場がローマとユダヤ、どちらの市民でもあるといったようなあやふやな状態で、侵略国家民族を形成しているという点です。ローマ帝国の国家戦略が略奪した他民族や他国家を飲み込んでしまう全体主義国家(グローバル国家)であることがはっきりと分かります。

 さて、今回の聖句ですが、パウロは、ダマスコへクリスチャンたちを縛り上げエルサレムへ連行するために向かっていました。その途上でイエス様が光と共にお現われになり、「私はあなたが迫害しているイエスである」(使徒9:5)と名乗られ「起き上がれ。自分の足で立て。私があなたに現れたのは、あなたが私を見たこと、そして、これから私が示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。私は、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす」(使徒26:16,17)と語られ、冒頭の聖句を続けられました。パウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしませんでした。そしてこう指示されました。「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」(使徒9:6)。この瞬間まで、パウロは、自分がやりたいと思い、自分が良いと思い、自分の意志で行動してきました。このとき以後、パウロは何をなすべきかを告げられる者となりました。パウロは二度と自分で道を決めることをせず、ただキリストの道に従いました。パウロこそ、大迫害者からイエス様の弟子へと一大回心した人物はいないでしょう。これは一方的な神の恵みの中で起こったことで、パウロの意志でもなく、突然に起こったことでした。イエス様は、パウロを起用して、ユダヤ人を律法主義から解放し、異邦人も含めさらにローマ帝国の圧政(奴隷化)からも解放させられました。

幕末の志士たちは、世界を見たり、その情報を聞き、世界を支配しすべてを自分のものにしよう(全体主義:グローバル化)としている連中(グローバリスト)の仲間(属国)になろうとして、彼らに近づいたのではありませんでした。そうではなく、反対にその波に飲み込まれ、植民地や奴隷になり下がることのないように、世界の情報を注意深く取り入れ、対等に、いやそれ以上に張り合えるように、日本の国力を高め、日本人の能力を深めようと、世界に目を開き、心を開いていったのです。志士たちは、懐刀(ふところがたな)として、グローバリストたちの手の内をしっかりと心にとめ、後世の我々の為に、日本の国益を守ろうと命をかけたのです。ローマ帝国は当時、パン(食糧)とサーカス(快楽、スポーツ観戦、ゲーム賭博等)によって捕虜民や自国民を骨抜きにし、奴隷化する政策でした。同じように、日本では戦後占領軍(GHQ)の3S政策(スクリーン、スポーツ、セックス)で日本人を愚民化してきました。神は一方的に私たちを選ばれました。己がこの滅びの世に目が開かれ、隣人や子孫の目を開き、イエス様の愛の相続にあずからすためです。

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