神のジグソーパズル!
- 耕司 大平
- 2023年4月15日
- 読了時間: 7分
2023年4月15日(土) 「神のジグソーパズル!」 LT(Loving Time)大平耕司
今日私に与えられた聖書のメッセージです。***************************************
ルカ18章7,8節『まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。』・・これは、イエス様がたとえ話『やもめと裁判官』の最後に語られたものです。
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない』」。それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして、地上に信仰を見いだすだろうか」。(ルカ18章18~8節)
イエス様がここで語られた主題は、「祈る」です。祈るためにはもちろん信仰を持つことですが、聖書は神を信じないと理解できません。神を信じるとは、神が生きているということが分かるということです。聖書の知識が増えても、信仰にはなりません。「神様、どうぞあなたが生きておられる事を分からせて下さい」と祈ることが大事です。しかし、神は、すぐには答えられない場合が多いです。だから、祈りの生活を一所懸命にやろうと思う人が遭遇する経験は、「気を落とす・失望する」ということです。それでイエス様はたとえ話の中で、失望しないで熱心に、しつこく祈りなさいと教えられたのです。このお話の中に、神も人も恐れない不義なる裁判官がいます。自分が神と同じように裁く権限を持ち、思うままに自由に裁く権力を振り回していたのです。その裁判官のところに、ひとりのやもめが裁判をしてくださいと訴えてきました。最初は相手にしなかった裁判官も、繰り返し来て訴えるやもめにうんざりして、「これからもひんぱんに来て、私を悩ますようになりかねないから、裁判をしてやろう」と重い腰を上げました。やもめとは、夫が死んで独身の女性です。当時のユダヤ社会においては、地位の低い立場の女性でした。その無力なやもめが必死に訴えるということは、自分よりもはるかに力のある人に、力づくで財産を奪われるような訴えだったのかもしれません。必死に訴えても、聞いてくれない裁判官です。しかし、このやもめは諦めませんでした。気を落とさないで何度でもやって来ました。粘り強く何度も足を運んだこのやもめの態度に、不義な裁判官もとうとう根負けしてしまいました。自分がさんざんな目に遭わされると恐れました。ですから、悩まされる事柄を片付けてしまったというのです。つまり、神も人も恐れない裁判官であっても、熱心な願いには負けるもの。まして、日夜神に正義の裁きを求める信仰者、神に選ばれた民のために、正しい裁きを、神はなさらないはずはないと、イエス様は言われたのです。祈りは失望してはいけない。絶えず叫び続け、訴え続けなさい。神は必ず聴いてくださると述べられました。しかし、話はここで終わっていません。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」と最後に言われたのです。イエス様が、再び戻って来られる時、地上に信仰者が見出せるだろうか?『再臨の希望』を祈り続ける神の民がいるであろうかと問われました。私たち信仰者を疑っておられるわけではありません。期待をしておられるのです。つまり、人間の忍耐の祈り以上に、神様は最後まで私たちが救われるように忍耐していてくださるということなのです。私たちは、絶えず、気落ちすることなく『主よ、来てください』と祈らなければなりません。それは、私たちの忍耐力が問われていることではなくて、不義なる裁判官に遥かに勝って私たちの訴えを聴いてくださる神のお話をしてくださっているのです。この地上の不義なる者、それは、罪人である全人類の事でもあります。ですから、私たちもすべての祈りは、そのことにより神様の栄光が称えられるためであることを忘れてはなりません。神様は、私たちの祈りの瞬間から、ジグソーパズルを合わせるように、私たちの祈りの成就が、家族や周りの人や社会にも神の栄光が現れるように、少しずつ整える作業を開始されるのです。いうなれば自己中心でワガママな祈りも、神様の栄光に満ちた結果に生まれ変わらされるのです。たとえば、ある信仰者(作者不詳)のこのような詩に表されています。_______________
★大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、
謙遜を学ぶように弱いものとされた。
より偉大なことができるように健康を求めたのに、
よりよいことができるようにと病気をいただいた。 幸せになろうとして富を求めたのに、
賢明であるようにと貧しさを授かった。
世の中の人々の称賛を得ようとして成功を求めたのに、
神を求め続けるようにと弱さを授かった。 人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるようにと命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。
神の意に添わぬものであるにもかかわらず、
心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。
_私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。________________
私たちは、必死で祈り求めるその過程の中で、少しずつ、悔い改めがなされ、霊性が高まり、結果的にすべての祈りの成就は『再臨への希望』へと繋がっていきます。私たちが祈り始めた時、神様はそれに応えてジグソーパズルの一つ一つをはめ込み始められます。周りの状況を整えたり、私たち自身の霊性に問題があるのを気づかせ、悔い改めさせ、そのことを通して家族や隣人を導かれたり、その祈りの過程において様々な配慮をなさり、すべてが愛の成就になるようにされます。それには少々時間がかかります。私たちの罪の性質に原因があるからです。それなのに、私たちの方が気を落とし、失望し、祈りを諦めてしまいます。その祈りに対して、私たち以上に真摯に向き合って速やかに解決して下さるのは神様の方です。ですから、イエス様は、「人の子が来るとき、果たして、地上に信仰を見いだすだろうか」と愛を込めて、祈り続けるようにと私たちに懇願されたのです。下記のたとえ話をイエス様がなされたのは、そのような弱い私たちへの励ましでした。
そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか』。そこで、園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら切り倒してください』」(ルカ13章6~9節)
ある人とは神様、ぶどう園はこの世、いちじくは私たち、実とは信仰、園丁とはイエス様の事です。弱い私たちの信仰を支えてくださるのはイエス様です。そして、ジグソーパズルの絵を完成させて下さいます。その絵とは、もちろんイエス様の再臨の絵です。そこには、私たちが永遠の御国へ導かれて行く様子が描かれています。すべての祈りの完全な成就は、罪が滅び、死も悲しみも嘆きもない愛の御国で為されるのです。嬉しいですね!
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