神への借財!
- 耕司 大平
- 2023年5月20日
- 読了時間: 7分
2023年5月20日(土) 「神への借財!」 LT(Loving Time)大平耕司
今日私に与えられた聖書のメッセージです。***************************************
マタイ18章35節『あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」』・・・これは、イエス様の「仲間を赦さない家来のたとえ」の個所(マタイ18章21~35節下記)として語られた最後の一節です。
そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家族の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ、返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を帳消しにしてやったのだ。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまではと、家来を牢役人に引き渡した。・・冒頭聖句・・。
前回に、マタイ25章31節から語られる「羊と山羊」のたとえ話を聞きました。そこでイエス様は、自分がすっかり忘れてしまい、そんなことをいつしたかと、思い出せないほど小さな愛を大切にすることを教えてくださいました。また、愛が報われなくても、人類歴史の最後の時に、そのひとつひとつの愛をイエス様が受け止めてくださること、そのことが明らかにされるとの教えもありました。小さな愛に生きる者を励まし、慰めてくださったのです。さて、今回のたとえ話は、もうひとつの愛の特質を語っておられます。弟子のペトロが、自分の仲間が、私に対して罪を犯したら何回赦せばいいのかをイエス様に問いました。「7回も赦したら立派ではありませんか?」と。相手を赦すことによって愛の真実が試されるということです。例えば、恋人ができて結婚します。最初は、恋の病ではないですが、すべてが素晴らしくて相手を赦すなどということは考えもしません。しかし、どんなに愛している人でも毎日一緒に生活をするようになると、だんだんお互いの欠点が目につくようになります。初めの頃だと「いいよ、そんなこと」などと言っていたのが、今はもう赦せない。そしてしまいには、ほんのつまらないことでも、それがきっかけとなって別れ話になります。だから、赦しは愛にとって重要です。もちろん誰もが認識していることでもあります。ではなぜ、7回なのでしょうか。・・いったい罪を犯した相手に何回赦したらいいのでしょうか。相手が間違いを犯すたびに、赦していると、相手を甘やかしてしまう。いい気になってつけあがるばかりです。当時のユダヤ社会においても同じように考えました。だから、律法学者は、「7回までであろう」と答えたのです。旧約時代、7は完全数であり喜ばしい数字でした。7度も赦せば、その赦しは完璧であるというユダヤ社会の常識があったものですから、ペトロはそのようにイエス様に言いました。それで、イエス様は、「7の70倍赦しなさい」と言われたのです。イエス様は、490回赦すほど忍耐に忍耐を重ねなさい、さらに我慢しなさいと言われたのでしょうか。しかし、忍耐と我慢が続くと最後には、「堪忍袋の緒が切れた」と言うように、人間は相手に対して過激な復讐、報復をするものです。たとえ、ペトロが気を利かして「私たちは、イエス様の弟子ですから、7を70倍は赦さないといけないでしょうね」と言ったとしても、イエス様は、「いや、それを70倍するまで赦しなさい」とさらに言われたでしょう。つまりここでイエス様が問題にしているのは、回数ではなくて、無限に赦しなさいということを求めておられるのです。少しでも多くを赦すようにという戒めを満たすために、忍耐力を強化しなさいということではないのです。イエス様は、そのことを説明されるためにひとつのたとえ話をされました。・・ある王が家来に1万タラントンを貸していました。1万タラントンとは、1日分の労賃である1デナリオンの6,000倍です。1日の労賃を1万円とすると6億円という大金になります。この家来は必死に願い出て、この借財をすべて帳消しにしてもらいました。とても大きな赦しの恩恵にあずかりました。ところが、そのあとすぐに、この家来は自分に100デナリオン、つまり、100万円を貸している仲間に出会いました。そして相手が必死に赦しを願ったのに、これを赦しませんでした。そこで、王は怒ってこの家来に対して、借金を返すまではと牢役人に引き渡したというお話です。
さて、イエス様の話された意図は何でしょうか。誰かが自分に対して罪を犯したら、それを赦しなさいという単純なお話ではありません。赦す権利がある自分がいい人間で、罪を犯す相手は悪人である。赦すたびに自分は少しずつ偉くなり、徳がついていくという話ではないのです。イエス様は、そのような浅はかな人間に対して、あなたがたは少しも罪を犯していないのか、その反対に、とても重たい罪を赦された罪人でしかないのではないか、と言われているのです。このたとえ話に出てくる王は、神様のことです。私たちは、神様に対して大きな罪を赦されている存在であるということをイエス様は語られます。罪とは、相手に返す責任がある借財のようなものです。このことが重要です。罪人とは、聖書の律法に背くことだけではありません。それを超えて、神様に対して大きな負債を負っている存在であるということなのです。私たちは、そのことに気づいていません。私たちは自分の欠点や弱さ、そして惨めさを知っているつもりです。しかし、それらすべての源において、私たちが責任を負うべき罪人であること、神に赦していただかなければ生きていかれない者であること、そして、今はイエス・キリストの死と蘇りによって、その赦しを得ている者であることを知っていなければ、すべてはむなしいのです。この家来のように、王に赦されていながらも、その憐れみを持たないで、愚かにも自分が王に代わって相手を裁き偉ぶる様に、自らを滅びの淵に追いやっていることに気づいていないのが我々だとイエス様は言われます。では、いったいどのように考えてそれを実践できるのでしょうか。具体的には、赦しと信頼とは別だということを認識する必要があります。つまり、赦しは相手のためではなく自分が罪に陥らないためにあるということです。自分に罪を犯した相手を赦さないと、いつまでもその相手が目の上のたんこぶになってしまい、つきまとい、しまいにはその偶像に悩まされてしまいます。怒りが己を支配してしまい、自らを滅ぼしてしまいます。だから、神様が自分を赦されたように、相手を赦すのです。しかし、だからといって相手を信頼する必要はありません。それとこれとは別なのです。
私の父は、私が小学6年の時に亡くなりました。その後、母は父が残してくれた家で私たち4人の子供を苦労して育ててくれました。その間大きな悲劇が我が家を襲いました。高速道路建設のために、我が家が2千万円という立ち退き料を頂きました。しかし、こともあろうにそのすべてを奪い取られてしまいました。母親が幼友達にそのすべてを貸してしまったのです。相手は、素人の母親に故意に不渡手形を握らせたのです。一円も返済されませんでした。その悔しい思いは、後々まで母親のみならず私の心にも残りました。大工の棟梁であった父の死の不幸に続いて、この有様です。でも、今思うとこのことがあったので、自分が思い上がることもなく、贅沢することもなく、過ごすことができました。そのおかげで、イエス様と出会い、子供たちもその家族もイエス様と共に歩めていると信じることができています。すべては神様に感謝しましょう。神様の愛に生きましょう。
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