神様は本当にいるの?
- 耕司 大平
- 2022年8月6日
- 読了時間: 7分
2022年8月6日(土) 「神様は本当にいるの?」 LT(Loving Time)大平耕司
アメリカのある教会で、おもしろい会が開かれました。その地域の無神論者と教会のクリスチャンたちが討論会をすることになったのです。神は生きて働いているというクリスチャンに対して、神なんかいないという無神論者の人たちが挑戦してきたのです。
それで、教会において公開討論会ということになり、多くの聴衆を集めました。その上、その話題を聞きつけたラジオ局が全国に放送しました。その結果は、キリスト教に対して疑いを持ってそこに集まって来た人たちの82%が、キリスト教の方が正しいと認めました。そして、無神論者の人々の中から47名もの人が「イエス様を信じたい」とそこの教会の牧師のもとに来たそうです。討論会の内容は、神を信じる事がいかに愚かしいか、と攻撃的に主張してくる無神論者の人たちに対して、クリスチャンの人たちは、反論をするというよりも、自分の身に起こった体験(証し)について語りました。
ある青年が立ち上がって、「僕は、以前は薬物依存症(麻薬中毒)でした。そのままだったら、今頃はこのように生きてはいなかった。でも、イエス様に出会えて、完全に回復しました」と証しました。また、別の人は、「私たち夫婦は離婚寸前でした。しかし、イエス様に出会って、もう一度新しい結婚生活を始めています」と話しました。クリスチャンの人たちは、イエス様と出会って自分の人生がどのように変えられたのかを、次々に証しました。攻撃的な態度ではなくて、優しさと柔和な愛の態度をもって話しました。そのことが、そこに来ていた人たちの心に感動を与えました。
その聴衆の中に、一人の若い女性の看護師さんがいました。彼女はこの時の体験をこのように話しました。「私は子供の頃に、教会に行って失望しました。そこにいるクリスチャンにがっかりしたのです。人前では信仰深そうに見せて、裏では人の悪口ばっかりを言っていました。そういう人たちを見て、私は絶対にあのような人たちの仲間にはなりたくないと決めたのです。その日の朝、私は新聞でこの討論会の事を知りました。そして今日こそクリスチャンたちの化けの皮が剥がされる日だと思い、出席しました。しかし、討論会ではクリスチャンの人たちが圧勝しました。私がこの討論会で感じたものは、優しさと穏やかさでした。自由に質問ができて、それを真剣に受け止めてもらいました。私は大切に扱われ、認められたのです。私はクリスチャンに、聖人君子のような完璧さを求めたわけではありません。私が欲しかったのは、愛と誠実さだったのです。私はここで、そういう大勢のクリスチャンに出会えました。そして、私もこのような人たちの仲間になりたいと思いました。」・・・ちょっと前、「神は死んだのか」という映画がアメリカで制作されて話題になっていました。ある大学生と大学教授のバトルで、実際に起きた「神など存在しない」と主張する哲学教授と、クリスチャン大学生との論争を映画化したものです。その中で、大学生がこのように発言した場面がありました。「神がいなければ、カンニングをしてもそれが大きな問題ではなくなるでしょう。でも、あなたは、私を叱るでしょう。なぜですか?神がいないという道徳的絶対主義が無いのなら、何をやっても成功すれば、それでいいのではないでしょうか?クリスチャンにとって、神が善悪を判断する道徳的指針となるのです。」そして、ドフトエフスキー(ロシアの小説家・思想家)の言葉を紹介しています。“神が存在しないなら、何事も許される”と。「つまり、大学の講義もこのような議論をして結論を出しても、何の意味もないことになる、人間も金魚も一緒ということだ。信仰とは、選択することに他ならないのに、あなたは、教授という立場から彼らの選択肢を奪い、神を信じないことを選ばせた、それは、おかしい」と主張します。
私たちの理性を成り立たせているもの、それは神という絶対的存在のゆえです。ひいては、己の心も含む、この罪ある陰謀や不正、理不尽な行為や不平等が渦巻いている人間社会の中で、唯一信じ切ることのできるものが、イエス様が示された“愛と誠実なる神”御自身であり、聖書の情報です。究極的にはそれが中心となって、この社会を支えています。
今日私に与えられた聖書のメッセージです。
ヘブライ1章2節『この終わりの時代には、御子によって私たちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。』・・・多くの科学者は、すでに、神の存在を認めています。なぜならば、この宇宙には秩序があり、規則正しい法則が次々と発見されているからです。科学の進歩により、物事を単なる偶然のせいにしようとする人はほとんどいなくなりました。聖書にはこのように書かれています。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」(ローマ1:20)。
聖書は、神を信じないことは愚かなことだと述べています。知的な人間にとって、神を信じない事のほうが、野蛮で非理性的なことなのです。大切なことは、神は今も生きておられ、私たちの人生に働きかけ、私たちの人生を変えてくださるということです。
問題は「神は存在するか、しないのか?」ということではなく、「神とはどんなお方なのか、そして私たちとどのような関係があるのか?」ということなのです。私たちの問題は、神についての間違った考え方をしている点にあります。
不幸なことに、ほとんどの人は神と自分の親とを重ね合わせて考えています。神のイメージを自分の父親か母親のように捉えているのです。もし、自分の両親がとても怖く、虐待する存在だとしたら、「神は恐ろしい方であるに違いない。自分を痛めつけて、虐待する神なんだ!」というイメージが定着してしまいます。神様は、ご自分に似せて人を造られたはずなのに(創世記2:27)、自分自身のイメージに基づいて神を勝手に作り上げてしまうのです。ですから、最も大切なのは、神とは本当はどのようなお方なのかということを知る必要があります。幸いなことに、見えない神を理解するのに、神は今から約2千年前に、この世界にイエス・キリストを遣わされました。私たちは、このお方を通して神様がどのようなお方であるのかを理解することができるのです。聖書の中のイエス・キリストの生涯を学ぶなら、神様について非常に多くのことを知ることができます。
聖書に「主よ、あなたは私を調べ、私を知っておられる。・・遠くから私の思いを理解される。・・主よ、あなたは何もかも知っておられる。・・その知識は、私にはあまりにも不思議、高すぎて及びもつかない。」(詩編139:1~6、聖書協会訳)とあるとおり、神様は、私たちが抱えている問題を何もかもご存知です。その上「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、」(エフェソ2:4)とあり、私たちの事を心から心配していてくださいます。そして、その状況を変えることがお出来になります。キリストを死から蘇らされた同じ力によって、神は私を変えてくださいます。
私がバプテスマ(洗礼)を受けたのは1991年12月22日34歳の時です。きっかけは、小学校6年生の時に父親を亡くして以来、仏壇に向かって頭を下げてきた私でしたが、ある時にこのような声を聞きました。「いつも、私(父親)に頭を下げて願い事や祈りをしているようだが、私は死んだからといって、偉くなったわけでもなく、神のように全能の力を得たわけでもない。ましてや、親というものは、子が自分を超えてくれた時に本当の喜びを感じるものだ。真の神様は別にいらっしゃる。人類の命を創造され、天地宇宙を御支配しておられる方に信頼し、すべてをおゆだねしなさい」。
その瞬間に私の頭に浮かんだのが、当時仕事の関係で縁を頂いていた教会の牧師です。すぐさま飛んで行ってお聞きしました。「先生、その真の神様とは、聖書の神様の事ですか?」すると牧師は多くを語らずに「そのとおりだよ」と一言おっしゃっただけでした。そのたった一言が私の心にストーンと入っていきました。不思議な感覚です。今考えると、すべて聖霊の神の働きだったと思います。
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