私が信仰を持つ理由!
- 耕司 大平
- 2022年1月10日
- 読了時間: 6分
2022年1月8日(土) 「私が信仰を持つ理由!」 LT(Loving Time)大平耕司
娘が6歳で死んだ。
ある日突然、風呂に入れている最中意識を失った。
直接の死因は心臓発作なのだが、持病のない子だったので、病院も不審に思ったらしく、俺は警察の事情聴取まで受けた。
別れた女房が「彼氏」同伴でやって来たが、もはや俺にはその無神経に腹を立てる気力もなく機械的に葬式をすませた。
初七日も済んで、俺は独りで映画を観にいき、娘が観たがっていたゴジラととっとこハム太郎の二本立てを観ることにした。
「とっとこぉはしるよハム太郎♪」の歌を聴いた瞬間、やっぱり俺は泣いた。
6歳にもなって活舌の悪い娘が、この歌を一生懸命覚えて、
とっとこぉ、はしゆよ、はむたよお♪
と歌っていたっけ。
ハム太郎の紙コロジーだってクリスマスに買ってやるつもりだった。
女親のいない家庭だったが、少しでも女の子らしくと、服を買うときだって、面倒がらずに吟味を重ねた。
学校だって、行きたいところに行かせてやるつもりだったし、成人式には、ちゃんと着物を着せてやるつもりだった。
女房と離婚してから俺は100%子供のために生きることにして、必死にやってきたのに、 この世に神様なんて絶対いないんだと知った。
****************************************インターネット記事「naku」より*************
さて、今日私に与えられた聖書のメッセージです。
ローマ7章25節『私たちの主イエス・キリストを通して神に感謝します。このように、私自身は、心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。』…パウロはこの個所で、自分自身の心の中を暴露しています。そして、人間性の真の本質についての自分の体験を語っています。彼は何が正しいかを知っていました。彼は正しいことを行おうとしました。しかし、どうしてか、それを行うことが出来ませんでした。「私は、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(同15節)。パウロは何が悪であるかを知っていました。しかもそれを知りながら、悪を行いました。彼は自分が分裂した性格であることを知りました。それはあたかも、一つの身体の中に二人がいるようなものでした。彼は自分自身が二つの方向に引き裂かれているように感じたのです。彼はこの挫折感、すなわち、何が善であるかを知る能力と、それを行い得ない無能力、何が悪であるかを承認する能力と、それを行うことを自制することのできない無能力につきまとわれて悩まされていました。ユダヤ人は、悪の衝動が起こる時に、知恵と理性がそれを克服できると主張していました。つまり、律法がそれを予防できると考えていたのです。しかし、それは実際には無理でした。自動車運転免許の学科の試験は合格しても、それだけでは運転できないのと同じです。
イエス様は、話されました。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな、人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける。兄弟に『ばか』という者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』という者は、火の地獄に投げ込まれる」(マタイ5:21、22)。つまり、心の中の思いにまで律法の規定が及ぶことを示されました。あるいは、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」(同28,29節)と言われ、善人を装っていても、すべての人が実質的には罪人であることを教えられました。十戒(出エジプト記20章)に反することは罪です。つまり、互いに愛するためのルールが十戒(神信仰、偶像を拝むな、神の名を汚すな、安息日遵守、父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、嘘を言うな、他人の持物を貪るな)です。しかし、それを実際には、心の底から守れない。だからこそ、イエス様を見上げる信仰が必要になってくるのです。私たちは心から愛し合うためにこの世に命を受けました。しかし、そのルールが守れないのです。家族や配偶者、隣人と心から愛し合いたいのに、実際は束縛し合い、互いに支配し合うのです。しまいにはケンカし、憎しみ合い、殺し合う。この人間の中にある矛盾の解決を与えてくださったのが、イエス様の十字架の贖いでした。パウロは強烈なイエス様の介入により、自分も含むユダヤ人の偽善的生活による慢心に気づかされました。イエス様は鋭く指摘されました。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。」(マタイ23:27)。律法(愛のルール)は、実質的には人間の力では守れないことをイヤと言うほど悟らされたのです。私たちは、アダムとエバ以来、神から離れた罪のために、愚痴、不平、不満、恐怖、疑い、心配、嫉妬、悲しみ、悩み、などのマイナスの心が引き起こされ、争いや病、事故、災害などにつながり、最終的に、死ぬ(滅びる)運命に陥ってしまいました。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23a)とある通りです。だけど、その後にパウロはこのように書きます。「しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(同6:23b)。それは、「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(同8:3)とあるとおり、罪なき生涯を送られたイエス様が、ご自身の無垢な人性を私たちに与えられ、ご自分は人間の罪を負い、私たち罪人の身代わりとなられ、永遠に滅んで下さいました。私たちは、イエス様を信じる信仰により、イエス様からの愛の十字架の賜物を受け取るだけで、永遠の命を頂けるのです。ここに、大きな愛があります。信仰とは、選びです。生まれながらの罪人である私たちは、己の欲望や感情に従って生きています。そうすると、感情のアップダウンに左右された生き方となります。健康で幸せな時、あるいは、何か嬉しいことがあった時は、神様がいて祝福を与えてくださったと喜びます。しかし、人とのトラブルや事故、病気などでストレスがかかり、気がふさいだ時などは、神様などいないと自暴自棄になってしまうのが人間です。そんな不安定な感情に大切な人生を委ねるのは大きな損失です。自分の感情に依存せず、いつもかわらない神様の愛を選ぶのが信仰です。人の顔色を見てビクビクしながら生きるのではなくて、いつもイエス様の笑顔を見て安心して歩むのです。イエス様はどんな人や物事に対しても絶対に愛と善を成してくださいます。
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