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私たちの歓びとするものは?

  • 執筆者の写真: 耕司 大平
    耕司 大平
  • 2022年2月19日
  • 読了時間: 7分

2022年2月19日(土) 「私たちの歓びとするものは?」LT(Loving Time)大平耕司

三人兄弟の末っ子。幼少時代、親が離婚した。「おふくろが仕事で帰りが遅い。親の財布から金を盗み、寂しさを紛らわすようになりました」。小学校高学年の時、町でけんかになった。教師から一方的に悪者にされ、大人への不信感が募った。中三の時バイクの窃盗、無免許運転で補導。高校に入ったら・・、と自分でも思っていたが、中退。頼りにしていた次兄が、挫折し崩れてしまったのを間近に見た影響も大きかった。

「勉強もスポーツもだめ。自分をアピールできるものが何もない。それやったら一度きりの人生、やりたい放題やってやろうと、身勝手な生き方に流れました」

 そんな野田さんを教会に誘う人がいた。それは、自衛隊に入っている長兄で、彼はクリスチャンになっていた。初めて鑑別所に入れられ、出所した直後のこと。教会へ行くと笑顔で迎えられ、「ええ雰囲気やな」と思った。だが、「神がおっても不公平やし、俺の人生には必要ない」と結論を出した。暴走はエスカレート。大阪一の暴走族も夢ではない。そんな中、ダチ(仲間)を何より大事にしているはずの自分のウソに気づいてしまう。自分と一緒に万引きしたナイフで、仲間が人を刺した。少年鑑別所に送られた友人を、心底心配する自分と共に、「これでグループの名が上がる」と、利己的な計算をしている自分がいるのだ。また、自分のいのちを本気でつけ狙う人間がいる、という状況が生じた。その時初めて、心底から恐怖心を覚えるようになった。

 「あいつに殺られるんやったら、何年か刑務所に入っても、先に殺した方がいい」---そんな悪夢のような葛藤にさいなまれ、覚醒剤に溺れる。四度目に鑑別所に入った時、「正直言ってほっとしました」。長兄が聖書を差し入れてくれた。手に取ってみた。神が人間を想像したと書いてある。「ばかばかしい」という考えと共に、「ここに書かれてあることは本当かも」という思いが生じて読み続け、いつの間にか引き込まれた。「今になってわかることですが、聖霊なる神様の働きやったと思います」

 聖書は、これまで生きてきたのと全く異なる価値観を投げかけてきた。何しろ、「兄弟に向かって『ばか』という者は、燃えるゲヘナ(地獄)に投げ込まれます」というのだから。聖書に引きつけられた。これまで、「殺るか殺られるか」という価値観しかなかったところに、「自分の人生とことん悪へ行くか、とことん善を求めるしかない」という思いになった。神に見られている、という思いが生じてきた。そしてその感覚は至るまで続いているという。「見られて怖いのと違う。べたべたした父親、でもない。温かく見守られている視線を感じるんです」少年院に移されてから、短気ですぐ人に手を出してしまう自分に嫌気がさし、神に祈った。「そういう自分を取り除いて下さい」祈り終わった時、これまで経験したことのない、何とも言えない心の平安を感じた。自分は変われる、という予感をもった。真剣な、人生の求道者のような生活が始まった。悩みを持っている仲間に、「お前も神様を信じれや」という自分を発見した。人を殴ってしまった日は、食事を抜き自分を殴った。出所して、次兄が見つけておいてくれた仕事をしながら教会へ通うように。二十歳になっていた。スポンジに水がしみこむように聖書の言葉や牧師の話を吸収した。「キリストが俺らの罪の身代わりになって十字架にかかって下さったことを信じ、洗礼(バプテスマ)を受けました」

 かつての後輩を教会に連れて行く。「自分が覚醒剤などを教えた責任を感じるんです」「なかなか耳を傾けてくれへん奴もいるけど、『人を轢(ひ)くのと刺すのだけはやめてくれ』と一年がかりで言い続けていると変わってくれる」。自分ももし神がいなければ、昔の悪に戻るし、その「快楽」も知っている。しかし戻らないのは、神が生きておられるからにほかならない。エイジは自分が神を見つけたと思っていたが、実のところ、神が、迷い子のようなエイジを探して、見つけてくれたのだ。

「暴走族からキリストへ」 牧師候補生 野田詠司(マナブックス「生きることに疲れたあなたへ」より)

さて、今日私に与えられた聖書のメッセージです。

マタイ23章27節『律法預言者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。』・・・イエス様が宮で教えられる最後の日に、教えられたことです。多くの群衆の中で、大事な教えを諭されました。イエス様は、この世の栄誉も王のしるしも身に着けないで立っておられました。そのまわりを、豪華な服装をした祭司たち、高い地位をあらわす印のついた服を着た役人たち、巻物を手に持った律法学者たちが取り囲んでいました。ユダヤ人の中で、指導者的な役割と権限をもったサンヒドリンの議員の主だった人たちが来ていました。政治・司法の最高議会の人たちです。なぜならば、彼らは、イエス様を捕らえ、闇に葬りたいと考えていたからです。これまでも、たびたび大勢でイエス様を攻撃してきましたが、罪に陥れようとする彼らの計略は無駄に終わりました。

 いつの時代でもそうですが、政治家や支配者層は、その民を思うがまま、コントロールし、彼らの働きの搾取によって欲望と栄誉と財をわがものにしようとしてきました。残念ながら、神の民と称する誇り高きイスラエル人でしたが、その指導者たちも、罪にまみれ、人間の栄誉を求める者に成り下がっていました。彼らの本分は、旧約聖書で預言されていた救い主を見出し、神への栄光を帰す生き方をユダヤ人全体に示すべきなのに、中身はその反対に、自らの栄誉と権威と財のために働いていました。ただ、上っ面だけを敬虔そうに見せかけ、何も知らない民を彼らの絶対的な権威に従わせていたのです。

 イエス様は、そのような見せかけの中身のない権威、堕落した祭司制度にするどく警告をされるとともに、盲目的に従っている民全体に、神の救いの計画を教え諭されたのです。

 ユダヤの宗教は、まずモーセに与えられた十戒(出エジプト記20章)の教えを基礎とし、つぎに律法、すなわちモーセ五書を基礎として成り立っています。ユダヤ人の歴史は、彼らを律法の民としました。この律法は彼らにとって神の言葉そのものであり、世界中で最も偉大なもの、最も尊いものでした。彼らの歴史の中で律法がたびたび彼らを救ってきたのです。ですから、律法を学ぶことがすべての職業の中で最も尊い者とされました。その職業の人たちを律法学者と呼ばれるようになりました。そして、ファリサイ人とは、分離した人という意味で、この人たちは律法学者が作り出した規則・規定を守ることに専念した人たちでした。彼らは、猛烈な律法主義者で、厳格に律法を守ろうと不可能に近い生活を送ろうとした人たちでした。

 イエス様はそのような人たちに警告されました。「あなたたちは偽善者だ。白く塗った墓に似ている」と。つまり、「中身の汚さを隠し、人々への見せかけのために、外側をきれいに装った墓と同じだ。とても敬虔そうにふるまっているけれども、あなたがたの偽善を悔い改めなさい。内心は自己中心の欲望だらけだ。もう人々をだますのはやめなさい。いくら努力しても己の罪は一掃できないことを素直に認めなさい!」と言われました。

 イエス様は、私たちに一生懸命に自分の力で努力しなさいとは言われません。努力して聖人君子になれるのでしたら、私たちの人生はとても楽です。しかし、そうではないので、イエス様が十字架にかかられたのです。イエス様は十字架にかかるほどに私たちを愛してくださいました。愛のルールである十戒を心の奥底から完全に守れるのは、イエス様の汚れなき御性質のみです。私たちは努力(行い)ではなく、イエス様の私たち罪人の身代わりの死を受け入れる信仰によって、永遠に救われる者となるのです。私たちが手を打ち叩いて喜べるのは、イエス様の喜びが私たちの喜びとなる時です。すなわち「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)を伝えるべく、一人の人間の人生が神にあって、輝く人生へと変わるのを見ることに、自分の人生が関与することに尽きるのです。イエス様の十字架のみによって、すべての罪は救われるのです。この「愛」を深め合いましょう。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

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