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苦しい時の神頼み!

  • 執筆者の写真: 耕司 大平
    耕司 大平
  • 2022年4月16日
  • 読了時間: 7分

2022年4月16日(土) 「苦しい時の神頼み!」    LT(Loving Time)大平耕司

 「古池や蛙(かわず)とびこむ水の音」という有名な俳句がありますが、これは、かの松尾芭蕉(1644~1694)が詠んだものです。さて、この俳句の情景はとてもよく分かりますが、真意をご存じの方は少ないと思います。この句は1686年、芭蕉が43歳の時のものです。ある時芭蕉が仏頂和尚という人の所にいた時に、和尚から「人生とは何ぞや」と問われました。このとき即座に「かわず飛び込む、水の音」と答え、後に俳句として「古池や」と付けたものです。つまり、人生とは、カエルが飛び込んで、ポチャンという音のようなものだという、一休さんならではの禅問答だったのです。 

 さて、聖書にも同じような箇所が出てきます。「名声は香油にまさる。死ぬ日は生まれる日にまさる。弔いの家に行くのは、酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆終わりがある。命あるものよ、心せよ」(コヘレト7:1,2)。つまり、「人生において大事なことは、私利私欲を増して財産を誇るよりも、その間に成した神の業のほうが尊い。だから命を神から頂き生きたとしても、神を知らず過ごすならば死人と同じだ。だから、祝いの席に招かれて有頂天に騒いで過ごすよりも、葬式に参列して、短くはかない自分自身の命の時間を顧みて、残りの人生にて何を成すかをしっかり考え、歩みだす方がよっぽどいいのである」と。この聖書記事の「コレへトの手紙(伝道者の書)」は、あの栄華を極めたソロモン(紀元前1011~931年頃)が人生の終わりに己の生涯を顧みて、悟りの境地にて、神の御心を記したものです。

 次に『武士道』という本を書いた著者を紹介したいと思います。彼の名は、新渡戸稲造(1862~1933)です。彼は、盛岡勘定奉行、新渡戸常訓(つねのり)の子。新渡戸家は十和田地方の荒地の開拓で知られ、新渡戸の幼名稲之助は、その開拓地に初めて稲が実った記念として名付けられました。9歳で上京し13歳で東京英語学校へ行き、その後、同窓の内村鑑三と札幌の農学校の二期生として入学します。自由主義・合理精神を培うと共に、キリスト教の洗礼を受けます。卒業後、東大文学部に選科生として学んだのち、アメリカとドイツの大学で農政学・農業経済学などを専攻します。その留学中に、日本の伝統的精神を紹介する『Bushido』を刊行して反響を呼びました。帰国後は、いくつかの大学の教授を歴任し、1913年には東大法科大学教授になり、国際人としても活躍しました。

 さて、彼がこの『武士道』を書いた動機ですが、第一版の「序」の中で次のように書いています。『ベルギーの著名な法学者、ド・ラブレー氏との散歩の途中、宗教の話題に及んだ。「日本の学校では宗教教育がないと、おっしゃるのですか」と、この尊敬すべき教授が尋ねられた。私が「ありません」と返事をすると、教授は驚いて、突然立ち止まり、びっくりするような声で再度問われた。「宗教教育がない!それではあなた方はどのようにして道徳教育を授けているのですか?」私はその質問に愕然とし、すぐに答えることができなかった。なぜなら、私が子どもの頃に学んだ人の道たる教えは、学校で習ったものではなかったからである。そこで、私に善悪や正義の観念を形成している様々な要素を分析してみて初めて、そのような概念を吹き込んだものは武士道だったことに気づいたのである。』・・・札幌農学校は、「少年よ、大志を抱け!」で有名なウイリアム・S・クラークが赴任していた学校です。プロテスタントの敬虔な信者であったクラークは、専門の植物学より、キリスト教に基づく人格教育に重きを置き、彼が残した「イエスを信じる者の誓約」に多くの生徒が署名をしました。もちろん、新渡戸もそれに感化されてキリスト教徒になりましたが、彼は二期生だったので、入学した時にはすでにクラークは帰国していた、直接の面識はありませんでした。同期には明治キリスト教の先駆者となった内村鑑三がいます。なぜ、彼らはクリスチャンになったのでしょうか?一見、不思議な気もしますが、実はプロテスタントの根本的な精神というのは、質素倹約を旨として、自律・自助・勤勉・正直をモットーにする「自己の確立」を養成するものでした。それは武士道の人格形成と相通じるものがあったのでした。もちろん、武士の美徳と称される、君主に忠義・忠誠を尽くす精神も神への忠誠と同じ。彼らはそのことを理解すると、武士社会が崩壊し「君主」がいなくなったいま、その代わりとして「神」という新しき主を得たのです。その違いは、武士道には「神」と「聖書」がなかったことでした。それゆえに彼は、『武士道』において日本人の伝統的精神を集大成するにあたって、「人の道」である武士道と「神の道」であるキリスト教を比較しながら、いまだ成文化されていなかった武士道精神を、日本人の道徳規範の書、すなわち「和製聖書」として世界に示そうとしたのでした。

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今日私に与えられた聖書のメッセージです。

ヨハネ4章48節『イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。・・・イエス様が、自分の故郷であるガリラヤ地方に行かれました。そこでは、幼少の頃からイエス様の事を人々はよく知っていたので、以前帰郷したときには、ほとんどの人がイエス様を疑いました。だから、このように聖書に記されています。『このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった』(マタイ13:57,58)。しかし、今回は違いました。人々はその間にエルサレムでのイエス様の奇跡の業などを見聞きしていたから、歓迎して迎えたのでした。それで、イエス様は、以前、婚礼の席で水をぶどう酒に替えるという奇跡を行われた、カナの地に行かれました。

さて、その時、イエス様の噂を聞いた、近くのカファルナウムの地から王様に使える役人が、わざわざイエス様に会いにきました。彼の息子が病気だったからです。死にそうでしたから、親として藁をもすがる思いでイエス様に頼って来たのでした。そして、癒してくださるように懇願しました。その時に冒頭の聖句をイエス様が言われたのです。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」。それは、この王の役人に対する言葉もでしたが、そばにいた『現金(ゲンキン)なガリラヤの住民』に対するイエス様の皮肉にも似た言葉でもありました。これは、何を意味するのでしょうか?それは、疑い深いトマスに言われた言葉と同じでした。「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)

よく、私たちは「苦しい時の神頼み」という言葉を使います。つまり、ふだんはあまり神様に祈ってもいないのに、ひとたび、絶体絶命の危機に遭遇した時に、人は一生懸命その苦難や恐怖からの解放や解決を神に祈るというものです。これは人情というものでしょうか。やはり、弱い罪ある人間の真の正体でしょうね。何もなければ神様の存在なんか忘れ、私利私欲を追いかけ、欲望充足に日夜明け暮れてしまうのは悲しい人間の現実です。周りの人の事など、感謝もせず気にも留めない生活をしてしまいます。私もつい最近、高速道路でガス欠になってしまいました。燃料をうっかりして入れ忘れ、気づいた時には、燃料切れ警告ランプが点灯し、走行持続距離0キロと表示されていました。それも、真夜中。長いトンネルの中で気づいたのです。後ろは、渋滞気味でたくさんの車が続いています。それこそ神様に必死で祈りました。「このトンネルの中では車が止まらないように、せめて次のインター出口まで燃料を持たしてください!」と。おかげで何とか出口まで持ちました。そして、道路公団の職員に近くのガソリンスタンドの情報を尋ねたり、近くにいた道路作業員の若い人に解決策を聞きました。その時に親切に対応してくださった人々にどんなにか癒されました。普段は何にも感じなく過ぎ去る時を、一瞬にして神と人に感謝の念が生じる心境の変化に、己のことながら不思議に感じました。

日々、神様に忠誠を誓約し、聖書の御言葉に刺激され、己の成り立ちを過去の歴史から顧みて、神と隣人に感謝と奉仕を示すことで、神の愛を実践する者となりたいものです。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

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