試み・イエスの支え!
- 耕司 大平
- 2023年2月11日
- 読了時間: 7分
..2023年2月11日(土) 「試み・イエスの支え!」 LT(Loving Time)大平耕司
ペトロは、12弟子の中では長老格の人でした。いっさいを捨てて寝食を共にして生活をしてきました。いつでもそばにいて、イエス様を守るのは自分だと思っていました。だから、イエス様が最後について語られた時に、「私は死ぬまであなたと一緒にいます」とはっきりと語っています。そのペトロが、ここでは明らかに「私はイエスと言うような人は知らない」と言っています。思ってもいない不測の事態に陥ると、人の心の弱さが現れるものです。私たちの心も同じように揺れ動いていないでしょうか。この福音書が書かれたのは、イエス様が天に帰られて後、教会が作られてからでした。ペトロはその頃は教会の中心的な指導者でした。そんな中に、このペトロ自身の裏切りの物語も書き記され、教会の中で何度も語られました。ペトロにとっては恥であったに違いありません。自分も自らこの裏切りの物語を語る機会もあったでしょう。ある意味、人間的には隠したい、教会の恥を闇に葬りたいと人々は考えてもおかしくありません。しかしこの物語ははっきりと記されました。自分の恥をさらしても語られなければならない真理がここにあったのではないでしょうか。迫害の激しかった初代の教会において、弟子たちの誠実と愛が試みられることが何度も起こりました。私たちの信仰生活においても、絶えず試みの中に置かれています。その瞬間はイエス様の愛に感動し涙を流し、生涯お仕えしますと約束しますが、のど元過ぎればなんとやらで、身の危険や不都合な事が起こると信仰は跡形もなく消え去ります。ペトロの試練、それは不安と向かい合うことでした。不安に打ち負かされてしまうことでした。信仰とは正反対の不安、それが私たちの信仰生活の最大の敵です。・・ペトロは三度「私は知らない」とイエス様との関係を否定しました。他の弟子たちも同じように逃げ去ったのです。イエス様は人々と出会い続ける旅を続けられ、人々の愛を求め、ご自分に戻って来るように求め続け、やがて孤独な十字架の死をお選びになられました。イエス様を十字架につけたのは、当時の宗教指導者たちだけではありません。無責任な群衆だけでもありませんでした。弟子たちでさえそうでした。それゆえに、私たちの出会いには、裏切りを含む危険性があるのに気づかされます。イエス様はこの前に、ペトロに対してサタンの試みを受けることを予告されました。「しかし、私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)。慰めに満ちた励ましです。ペトロは、「ご一緒になら牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(同33節)とすぐさま答えたのです。しかし、彼はイエス様の予告どおり裏切りました。イエス様が振り返ってペトロを見つめられた時にも、
イエス様は、ペトロのために慰めと励ましの祈りを込めておられたのです。
さて、今日私に与えられた聖書のメッセージです。
ルカ22章32節『しかし、私はあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい』 ・・・つい最近60億円を騙し取った極悪犯グループのリーダーたちが捕まり、フィリピンから日本へ送還されてきました。人は、人間の弱さや愚かさを利用し、そこにつけこんで騙し金儲けや支配し権力の座に就こうとします。しかし、イエス様は人間を利用するどころかその愚かさに従われました。その弱さゆえに試みに会った人間に同情され愛し、祈り支えておられるのです。ペトロは裏切りのあと、立ち直るのに時間がかかりましたが、それまで、イエス様の愛の支えがあったがゆえに、よき指導者として立派に信仰を全うすることが出来たのでした。
イエス様は、この試みの前に群衆に対してこのようなたとえ話をされました。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に『お父さん、私が頂くことになっている財際の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人の所に身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父の所では、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、私はここで飢え死にそうだ。ここをたち、父の所に行って言おう。「お父さん、・・・雇人の一人にしてください」』。そして、彼はそこをたち、父親のもとへ行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして祝宴を始めた」(ルカ15:章)
この放蕩息子は、大金が手に入った時に試みに会いました。そして大失敗をしてしまったのです。自分がすべてを失って、頼るところは父親のもとでした。兄から「虫が良すぎる、ワガママで自堕落な弟だ。帰ってくる資格なし。出ていけ!」と言われるのは必至です。でも弟は悔い改めて帰って来ました。そして、父親はその弟を優しく迎えました。何がここで起こったのでしょうか。そこにあったのは、やはり父親の愛でした。父親は神様の愛を象徴しています。「まだ遠くに離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」とある通り、息子のいない間ず~と心配し、無事と帰還を祈り求めていたのでした。その試みの間じゅう、父親の支えの祈りがあったのでした。だから、帰って来ることができたのです。兄はやはりこの後、父親に文句を言っています。「あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」(ルカ15:30)。それに対して父親は、「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だがあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(同31,32節)。この兄は、試みの真っ最中ですね。父親と一緒に心から喜んで弟を迎えられたら、目覚めたペテロのようにどんなにか素敵で素晴らしい日々に変わった事でしょうか。試みの時こそ、イエス様の愛の祈りの支えがあることを覚えましょう。
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